コラム

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2010/01/28

Nr.28 ドイツ語圏 (16) スイスのドイツ語 (3)

諏訪 功 (一橋大学名誉教授・元独検出題委員)


今まで,スイスにはドイツ語圏のほかにフランス語圏,イタリア語圏,レトロマンス語圏があり,この四つの言語がいずれも公用語として認められていることをお話ししてきました。このように多言語国であるということが,スイスがドイツやオーストリアと根本的に異なるところです。もちろん多言語といっても,べつに一箇所で四つの言語が入り混じって用いられるわけではありませんし,またスイス人ならばだれでもこの四つの言語に堪能であるわけでもありません。これらの言語の話される地域は地図の上で重なることはなく,相補うように分布しています。そしてドイツ語圏の人々はドイツ語を話し,フランス語圏の人々はフランス語を話し…等々になるはずですが,果たしてその実情はどうでしょうか。

すこし古い統計(1989年)ですが,各言語圏の主要言語の使用状況を表した棒グラフがあります*。それによると,ドイツ語圏ではもっぱらドイツ語の標準語を使用する人が6,7%,標準語と方言を併用する人が26,9%,方言のみを使用する人が66%だそうです。これに対し,フランス語圏ではフランス語の標準語のみを使用する人が98%,標準語と方言を併用する人が1,5%,方言のみを使用する人が0,6%となっています。つまりドイツ語圏では,全体の90%以上の人々が方言だけを使うか,または方言と標準語とを併用していて,標準語のみを使用する人々は全体のわずか6,7%であるのに対し,フランス語圏では98%,つまりほとんどすべての人々がもっぱら標準語を用いていて,方言と標準語を併用している人々,または方言だけを使用している人々はわずか2,1%であることがわかります。ドイツ語圏では方言が主流,フランス語圏では標準語が主流というわけです。

前スイス大使・元警察庁長官の国松孝次さんは,その著書『スイス探訪』(角川書店2003年)の中で,「スイス第二の言語であるフランス語は,…ごく一部の地域でちょっとわかりにくい古いフランス方言(patois)が話されている例はあるものの,現在の標準フランス語と大きな相違はない」と書かれ,フランス語圏では伝統的にフランスや首都パリに対する親和感が強く,新聞などでもフランスの人々と共通の話題が多いことなどを述べられていますが,その際,ひとつ興味深い事実の指摘があります。「スイス・フランス語では…七〇は septante,八〇は huitante,九〇は nonante というが,これは現代フランス語が七〇を六〇+一〇,八〇を四×二〇,九〇を四×二〇+一〇というややこしいいいかたをするのと比べると,はるかに合理的でわかりやすい」。この「ややこしい」いいかたについては,すでに このコラムの第4回でちょっと取り上げました。このいいかたでは20が不当に優遇されていますね。両手,両足の指の数を合計すると20ですから,20を単位として数を言い表す「20進法」ももちろん考えられます。20 進法では80はたしかに4×20,90はそれに10をプラスする(4×20+10)ことになります。この20進法を最初から徹底し,30を 1×20+10,40を2×20,50を2×20+10,60を3×20,そして70はそれに10をプラスして3×20+10とでしておけば,ややこしいなりに首尾一貫します。しかし,60までは10進法に改めたくせに,70は60に10をプラスするというやり方を残し,80は4×20,90は4×20+10という20進法の唱えかたをそのままにしておいたために,学ぶ人をあぜんととさせるほど変わったいいかたになっているわけです。日本のフランス語の専門家は,初学者に数字を教えるとき,10から60までは心安らかでいられますが,70,80,90に移るときは,つい学習者から目をそらし,「俺が悪いんじゃないぞ…,俺は悪くないぞ」と,自分で自分に言い聞かせるのだそうです**。20以上の二桁の数字を言い表すときのドイツ語のひねくれた唱え方,たとえば21(ニジュウイチ)を日本語のとおり,あるいは英語の twenty-one,フランス語の vingt et un のとおり zwanzigeins または zwanzig und eins とせず,一の桁の数字を(しかも1の場合は形をすこし変えて)先にいい,十の桁の数字をその後に付け加えて「1と20」(einundzwanzig)とするドイツ語のヘンな癖を教えるとき,あるいは Landesfinanzamtsdirektorstellvertreterwitwe 「州財務局長代行未亡人」***等々の長大な複合名詞が頻出するドイツ語を読むとき,ドイツ語教師もフランス語の先生と同じく,学習者から目をそらし,「俺が悪いんじゃないぞ…,俺は悪くないぞ」と,自分で自分に言い聞かせる必要があるのかもしれません。

また話が妙なところにそれました。次回はたぶん本題に戻る…でしょう。

* 『現代ドイツ 情報ハンドブック』224ページ(三修社2000年)

** 田桐正彦著『フランス語語源こぼれ話』(白水社1998年)

*** 戦前の映画『未完成交響楽』の冒頭部,質屋のシーンで,年配の女性が自己紹介するときの文句です。