2006/09/28
Nr.9 ドイツ語圏 (4) オーストリア (2)
諏訪 功 (一橋大学名誉教授・元独検出題委員)
前回はドイツ語圏を構成する主要3カ国の一つとして,オーストリア(Österreich 正式には Republik Österreich 「オーストリア共和国」)を取り上げ,この国について,すこしお話を始めました。オーストリアの人口がほぼドイツの10分の1の820万人であり,国土面 積やその他の国力を表す数値に関しても,オーストリアはドイツに遠く及ばないこと,しかし,これは1918年以降の歴史的変遷にともなうものであって,それ以前のオーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)は,ヨーロッパの中央に位置する強大な多民族・多言語国家であったこと,西欧と東欧の接点という地理的な位置,かつての大国からアルプスの小国への移り行きという歴史的な変遷のせいで,オーストリアのドイツ語には,ドイツ本国のドイツ語と異なるざまざまな特徴があることなどについてお話ししました。今回はその続きですが,ドイツ語それ自体に踏み込むまえに,もうしばらく,一般的なお話を続けたいと思います。なかなか本題のオーストリア・ドイツ語にたどり着かないかもしれませんが,気楽なコラムですから,どうかご容赦ください。
私たちには万事につけ,いろいろな先入見,思い込みがありますね。ドイツ語では Vorurteil [フォーアウアタイル] と言います。独和辞典には「予断,偏見,先入観,先入主」などの訳語が掲げられています。物事を vorurteilsfrei または vorurteilslos 「偏見にとらわれず」に見るのはとても難しいことです。たとえば諸外国に対する日本人のイメージにも,いろいろな Vorurteile があるようで,これがいちばんはっきりした形で表現されているのはなんと言っても旅行会社の広告でしょう。最近はまた景気がすこし上向きになっているそうで,新聞広告,新聞の折り込み広告,ダイレクトメールなどで,趣向を凝らした海外旅行の広告を見る機会が増えてきました。その宣伝文句,いわゆる惹句を見ますと,それぞれの国,それぞれの土地,それぞれの都市には一定の枕詞がつきもののようです。「花の都」と言えばパリですし,「永遠の都」ならローマ,「霧の都」とくればロンドンです。「憂愁」というと,どういうわけかポルトガルの首都リスボンということになるようです。
私の知り合いに,バルセロナ出身のスペイン人がいます。彼はドイツで哲学を勉強し,その後,来日して日本に何年も滞在していました。私とはいつもドイツ語で話していましたが,彼がいつか,「私がスペイン出身だと言うと,いつも日本人が『ジョーネツ』,『闘牛』と口走るのでやりきれない」と言ってこぼしたことがあります。ビゼーの歌劇「カルメン」の影響でしょうが,たしかに旅行会社の広告には「情熱の国スペイン8日間25万円」などという文句が大きく出ていますね。この枕詞と Vorurteil の関係は,どちらがどちらを生み出したのかはわかりませんが,いずれにせよ,色眼鏡の一種で,私たちがある土地を冷静に観察するときの妨げになりますね。
ついでにもう一つ,私の先生筋にあたる方のエピソードをご紹介しましょう。もうとっくに亡くなられましたが,カントやシラーを専門とされ,ドイツ語を厳密・正確に解釈される点では,とびぬけた存在でした。この先生がある晩,私を相手にお酒を飲みながら,こうおっしゃったことがあります:「やはり思考はフランス語じゃダメだね。息を鼻に抜いて penser などと言うと,どうも軽々しくて,思考している気がしない。やはり『思考する』はドイツ語で denken と言わなくっちゃ」。フランス文化に心酔しておられる方々のために断っておきますが,この発言は,もちろん酒の席の冗談で,事実,先生は denken にわざわざ過度の力を入れて,おおげさに,こっけいに [デ・ン・ケ・ン] と発音されました。もちろんフランス語では思考ができない,などということは,某都知事の「フランス語は90を4×20+10と言い表すようなヘンな言語だから,この言語では計算ができない」という発言と同じく,まったくのナンセンスです。某都知事の発言の真意は知りませんが,私の先生はあくまでも酒の上でのナンセンスとして「思考するのはやはり denken でなくっちゃ」とおっしゃったのです。冗談,あくまでも酒の席の冗談です。
その証拠に,人間にとっての思考の重要性を力説したのは,ほかならぬ二人のフランス人デカルトとパスカルですね。前者の「我思う,ゆえに我あり」や,後者の「人間は考える葦である」という有名な発言を思い出してください。しかしフランス語はエレガントな社交の言葉,ドイツ語はどちらかと言うとかたくるしい学問と思索の言葉という Vorurteil は,やはり日本には根強く残っているようです。
話をドイツとオーストリアに戻しましょう。この両国に関する Vorurteil の一つとして, deutsche Pünktlichkeit 「ドイツ的な几帳面さ」と österreichischer Charme 「オーストリア的なチャーム(人をひきつける魅力)」というのがあります。この Vorurteil をそのまま信じると,「几帳面」というのが,ドイツ人のいわゆる「ウリ(売り)」であり,「人をそらさない魅力」というのが,オーストリア人の「ウリ」です。さらにこの2つを並べて発言する際には,「ドイツ人は万事に几帳面であるが,人間的な魅力にとぼしく,オーストリア人には人間的な魅力はあるが,あまり几帳面ではなく,だらしないところがある」という含意も感じられます。
したがってドイツ人でもオーストリア人でも,場合によってはフランス人でも日本人でもかまいませんが,ある人について,上記の deutsch と österreichisch という国を表す形容詞を取り替えて,「彼(あるいは彼女)は österreichische Pünktlichkeit と deutscher Charme を兼ね備えている」と言ったとします。これはけっして褒めことばではなく,2つの国の人々に関する先ほどの Vorurteil をもじった悪口,つまり「だらしなくて,しかも人間的な魅力にとぼしい」という手厳しい悪口にほかなりませんね。
たしかイギリスの数学者・哲学者のバートランド・ラッセルだったと思いますが,あるパーティーの席上,美人ではあるが頭がすこし足りないことで有名な女優から,「ねえ,先生,私たち結婚しましょうよ。先生の頭脳と私の容姿を兼ね備えた子どもが生まれたら,なんてステキなことでしょうか」と言われ,「それはすばらしい。しかし私の容姿とあなたの頭脳を兼ね備えた子どもが生まれたらどうしますか?」と答えたという話があります。「オーストリアの几帳面さ」と「ドイツ人のチャーム」を兼ね備えた人間というのは,ラッセルが怖れた不幸な組み合わせの子どもに似ていますね。
もちろん,実際には,だらしのないドイツ人もいますし,几帳面なオーストリア人もいます。人間的な魅力にみち,人当たりのやわらかいドイツ人もいますし,ぶっきらぼうで近づきがたいオーストリア人もいます。すべての Vorurteil がそうであるように, deutsche Pünktlichkeit 「ドイツ的な几帳面さ」と österreichischer Charme 「オーストリア的なチャーム」というのも,「思い込み」,「先入見」,「予断」であって,けっして一般化できないものです。しかしそれにもかかわらず…というところで,今回のお話はやめておきましょう。なかなかオーストリアのドイツ語の話にたどり着きませんね。