コラム

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2021/04/30

富山典彦さんを偲んで

光野 正幸(武蔵大学教授・公益財団法人ドイツ語学文学振興会 元理事長)


本稿を書こうと思っていろいろと富山さんのことをインターネット上で確認しているなかで,フェイスブックから彼の誕生日が判明した。「1951年7月6日生まれ」―― ご存命であれば,つい先日69歳になられたはずだったことになる。わたしより一歳年上だが,若い時からの豊かな長髪がいつのまにか「ロマンスグレー」という形容にふさわしい灰色に変化していたとはいえ,その細身の体形は終始変わることなく,失礼ながら羨望と嫉妬まじりに「万年文学青年」と呼びたくなる存在であった。

訃報に接したのは,新型コロナウィルス感染拡大のために大学の授業がすべて「遠隔授業」に切り替わることになり,通常より一か月遅れて新学期の授業が開始され,平時であれば教室に出かけて「口から出まかせ」で済んでしまうような授業についても事前に資料を作成してアップロードしなければならなくなり,連日「自転車操業」で授業準備に追われていた,5月下旬のことだった。

信じられなかったし,信じたくなかったが,「ひろの」編集長から受け取ったメールが「追悼原稿」の依頼だったから,信じざるをえなかった。

外出自粛要請もあり,自宅にひきこもってPCに向かう不慣れな「非日常」のただなかで受け取ったそのメールによれば,亡くなったのは5月10日で,入院三日後のことだったという。富山さんは独検のホームページで2016年からコラムの執筆を担当していて,Nr.37からNr.57まで合計21編を寄せているが,その最新稿がアップロードされたのは4月30日のことで,そこでは新型コロナウィルス蔓延の状況とウィーンの記憶を重ねあわせ,「ペストで亡くなった死者の山から生還した」芸人アウグスティンに言及したうえで,次のようにコラムを締めくくっている ――「毎日毎日,日本各地の感染者数がニュースで流れるたびに,暗い気持ちになってしまいます。大学も原則入構禁止ですから,授業はすべて遠隔授業になりました。大学教員歴42年目にして,まったく初めての体験をしなくてはなりません。この厳しく苦しい状況が一日も早く収束を迎えるよう祈りつつ,ぼくも頑張りたいと思います」。

こう書いた時,それから二週間も経たないうちに自分がこの世に,大切にしていた家族やかわいい学生たちに,永遠の別れを告げることになる,と富山さんは予感していたのだろうか。予感しながらも「ぼくも頑張りたいと思う」と締めくくるところが,富山さんらしいのかもしれない。

わたしが初めて富山さんと会ったのは,本郷の大学院に進学した1977年である。その時から,一年先輩だった。「大学教員歴42年目」ということは,逆算すれば二十歳台後半ですでに教壇に立ったことになる。当時はさほど珍しいことではなかったかもしれないが,なかでも富山さんは就職が早かった。最初に赴任した埼玉医科大学から,成城大学に移ったのは,何年前のことになるのだろう。1996年に振興会理事長に就任した平尾浩三先生が「なんとこのぼくを,理事の一人に採用してくださった」と彼自身が最初のコラムに書いているので,理事会や独検実行委員会で毎月のように顔を合わせるようになったのもその時からだろうが,それ以来,理事長が三代入れ替わっても,そしてわたし自身が理事会から身を引いた後も,富山さんは最期まで理事を務めつづけてくれた。その間,学会関東支部やオーストリア文学研究会でもしばらく幹部の務めを果たしていた(春の学会二日目の午後,独検試験場責任者打ち合わせ会が開かれるが,三つの会合が重なって辟易しながら飛び回っていた姿を記憶している)し,また本務校では一時期,入試の責任者という重責も担っていたから,相当忙しかっただろうと思うが,いつもにこやかだった。思い出されるのは,理事会や独検実行委員会の会議が終わった後,「さていつものように,一杯やっていこうか」と何人かの出席者が互いに牽制しながらぐずぐずしているのを尻目に,「帰心,矢のごとし」を全身で表現しつつ家路につこうとする富山さんの後ろ姿である。家庭ではお手本のような良い夫,良い父であったに違いない。

わたしの本務校と成城大学とは,前身が私立旧制七年制高等学校だったという共通点もあり,学習院と成蹊も交えた「四大学」として多岐にわたる交流をしているが,その繋がりにおいてはあまり富山さんと接する機会に恵まれなかったことが,残念ではある。しかし振興会と独検の発展に共に尽力した永い年月の記憶は,いつまでも色褪せることはないだろう。現理事長ならびに理事一同とともに,ご冥福をお祈り申しあげる。


※この追悼文は,振興会の機関誌『ひろの 60号』(2020年10月発行)に寄稿されたものの転載です。