コラム

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Nr.3 独検小史 (3)


実施のための実行委員として,山田,神品のほか渡辺健,井上修一,下程息,飯嶋一泰によるチームが結成され,いよいよタイムリミットをにらんでの活動が開始された。

まずは募金である。寄付は独文学会会員向けと一般向けの二本立てとした。しかしバブル崩壊後の時期であり,企業の財布の口は固かった。協力を期待して日独協会に相談をもちかけたところ,うちの法人会員はいずれも経営が苦しいので,新たな寄付要求で煩わさないでほしいと言われ,事態の深刻さを思い知らされた。それでも独検を始めることへの反響は大きく,苦しいなかを奮発してくださる篤志家もあり,募金はとりあえず当面の目標に近い額に達した。

募金と平行して急がねばならないのは,出題委員会の結成だった。出題委員長には東京大学定年退職後杏林大学教授になっていた山本明が引き受けてくれた。初代には最も望ましい人物だった。委員のメンバーは順調に決まったが,出題委員会の仕事は茨の道だった。1級から4級までの各級のレベルをどこに置くかという基本線の策定がなかなかできない。山本委員長は粘り強く会議をリードし,基準案を何度も練り直して,やっと合意の線に達した。4級は4月からドイツ語の学習を始めた者が11月の試験で合格可能な程度。1級はドイツ語だけがドイツ人並みにできても日本語の素養がなければ合格できないような内容とするなどの基本線が生まれた。問題作成作業は夏休み返上で進められた。

実行委員会では,ドイツ語学文学振興会が年一回刊行している情報誌「ひろの」の「別冊独検特集」を臨時刊行し,独検をPRするとともに,出題基準をはじめ,寄せられてくるあらゆる疑問にQ&A 方式で応じた。この小冊子には,各界の名士や学界の有力者からの激励の声も収録されている。落ちこんだときには,この冊子を覗くと確実に元気が取り戻せるというものである。

事務局は当面日本独文学会とドイツ語学文学振興会が同居している2LDK のアパートの一室に居候させてもらうことにした。専属職員としては東大教養学部ドイツ語教室の嘱託をしていた鯉淵をスカウトすることに成功した。

試験会場は,早稲田大学,明治大学,関西大学の3個所と決まった。全国規模で施行するべき検定試験としては,あまりにも少なすぎる会場数だったが,これが精一杯だった。とにかく行き届かない点が多いので,第1回はテスト実施,第2回から本格実施とすることを申し合わせた。こうして応募が少なかった場合の逃げ道も用意した。成否のメドは受験者が千名に達するかどうかだった。一番強気の山田さえ「3千来たら逆立ちして歩くよ」と言った。朝日出版社提供の,ノイシュヴァンシュタイン城をバックにした豪華なポスターが貼り出され,願書受付が始まったが,やはり出足ははかばかしくなかった。ところが締切まで2週間を切る頃から様子が変わってきた。