2026/09/24
Nr.88 私の学生時代 (4) 専門課程 (前編)
工藤 康弘(関西大学特別契約教授・公益財団法人ドイツ語学文学振興会元理事)
必要単位をすべて取り終え,1年半の教養課程を修了して初めて専門課程に上がる。「私の学生時代 (1)~(3)」で述べた教養部時代は,その後の専門課程とのコントラストが著しく,一言で言えば明るかった。かといって専門課程は暗かったわけではなく,別の世界であった。今の関西大学文学部では先輩と後輩が授業で出会うことが少ない。私の学生時代は先輩と後輩が同じ授業を受けていた記憶だけが強く残っている。たぶん専門課程に入った2年後期の体験が強烈すぎたからかもしれない。2年生と3年生の差はあまりにも大きかった。1年次の終わりから2年前期にかけてすでに,外国語科目でドイツ文学のテキストを読んではいたのだが,2年後期はなぜかしんどかった。この時期,トーマス・マンの『トニオ・クレーガー』を読んだことだけは覚えている。winken(合図する)という動詞を「ウィンクをした」と訳してくすくす笑われたこともあった。1回にどのくらい進んだかわからないが,予習がつらかった。3年生の先輩は涼しい顔をしているのだが,私はついていくのがやっとだった。もはやギターを習っている場合ではなかった。日々の生活は家での予習と大学での授業一色になった。2年次から4年次にかけて長い期間,ゲーテの『ファウスト第一部』を授業で読んでいた。毎回レクラム文庫で3~4ページ進み,とうとう読み終えた(!)。今も残るテキストは余白に鉛筆書きで予習のあとがびっしりと書き込まれている。しかし勉強がしんどいと思っていたのは2年後期の半年で,その後は落ち着き,大量の書き込みは,徐々にまばらになっていった。
先輩との付き合いは濃密であった。独文科の2年生は私一人で,3年生は2人。いつも3人でつるんでいた。その日の授業が終われば,大学生協で100円のコーヒーでずっとおしゃべりをし,店が閉まるというのでカップを返したあとも,テーブルにすわって暗くなるまでしゃべっていた(子供の遊びか)。男3人で何をそんなにしゃべることがあったのか。先輩2人はそれぞれトーマス・マンとブレヒトに入れ込んでいた。下宿を訪れたときも彼らは両作家を熱く語ってやまない様子。そうこうするうちに別の部屋から哲学を勉強しているらしい下宿生が乱入してきて,「現象学なくして世の中はわからないぞ」と一席ぶつ。それぞれがいっぱしの学者気取りで夜中までしゃべり尽くしていた。今でいう「推し」の作家を指針にして,自分の人生いかに生きるべきかを真剣に考えていたとすら言える。文学について,辞書について,勉強の仕方について,私は先輩たちから教えてもらった。
書いているうちにだんだん思い出してきた。先輩の下宿は古い家屋で,床がぎしぎしと踏み抜けそうであった。確か外便所だったような気がする。下宿代は月5000円で,安いからか2部屋借りているという。ちなみに当時の大学の授業料は半年で36000円くらいで,年2回会計課(あるいは出納課)の窓口に行き,現金で納めていた。一度だけ先輩の下宿で話に夢中になり,夜を明かしてしまった。朝帰りとなった帰路,町中ではエルヴィス・プレスリーが亡くなったというニュースが流れていた。