コラム

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2026/09/10

Nr.87 境界を越える言葉(「独検2026冬」受験要項より)

粂川 麻里生 (慶應義塾大学教授・公益財団法人ドイツ語学文学振興会理事長)


ここ数年,私たちは,第二次世界大戦後に築かれてきた国際秩序の枠組みが大きく揺らぐような出来事を次々と目にしています。世界各地で武力紛争が続き,国家間の対立は深まり,これまで当然の前提と考えられてきた国際協調の仕組みも,そのあり方が改めて問われる時代になりました。ヨーロッパもまた,このような問題と長く向き合ってきた地域です。ドイツ語圏にとって第一次世界大戦とは,ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国という二つの帝国の終焉を意味していました。そして世界全体を見れば,ロシア帝国やオスマン帝国もまた姿を消し,一つの時代が終わりを迎えたのでした。その後,人々は再び同じ悲劇を繰り返さないために模索を重ね,第二次世界大戦後には,主権国家を尊重しながらも,それを超えて協力し合う仕組みとしてヨーロッパ連合(EU)を築き上げてきました。

現代は,国家が依然として最も重要な政治的基盤でありながら,それだけでは解決できない課題が増え続けています。そのため,中世ヨーロッパのように,異なる共同体や文化圏が幾重にも重なり合う世界が再び姿を現しつつある,と語る研究者もいます。そのような歴史を振り返ると,ドイツ語圏はもともと,多民族・多言語が交わる中央ヨーロッパに位置し,さまざまな文化を結び付けてきた地域であったことに改めて気づかされます。ドイツ語の語彙をたどれば,ラテン語やギリシア語はもちろん,イタリア語,フランス語,スラヴ諸語,さらにはスペイン語やアラビア語などとの交流の痕跡を見いだすこともできます。一つの言語の中には,長い歴史の中で積み重ねられた多文化との対話の記憶が静かに息づいているのです。

言葉を学ぶことは,単に新しい表現を身につけることではありません。その言葉が歩んできた歴史や,人々が互いを理解しようとしてきた努力に触れることでもあります。多文化の記憶を幾重にも刻み込んだドイツ語を学ぶことが,混迷する世界をより広い視野から見つめ,未来への小さな灯火を掲げる力につながることを願っています。