2025/10/16
Nr.80 バイロイト・エアランゲン(1)
武井 香織(元筑波大学教授・公益財団法人ドイツ語学文学振興会評議員)
バイロイト辺境伯の領地は,バイロイト市を中心とした地域と並んで,西隣の帝国自由都市ニュルンベルクをはさんで,そのさらに西にも広がっていました。この西部の領地の中心がエアランゲン(Erlangen)です。
erlangen というと,ドイツ語学習の基本単語として,「獲得する」という意味の動詞が思い浮かびますが,この地名の Erlangen は諸説ありますが,Erle(榛の木)が生えている野原,という意味のようです。
17世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各地の君侯の間には,新しい都市の建設ブームが起こります。ルネサンスのイタリアから流行し出した理想都市のイメージに沿って,直線的な街路が格子状に配された幾何学的なプランが採用されることが多く,エアランゲンはその典型例です。ドイツ語圏では他にプファルツ選帝侯が造ったマンハイムやベルリンのフリードリヒ地区などに見られます。因みにローマ帝国時代に起源を持つヴィーンやトリアー,アウクスブルク,ケルンなどの町も,多少の崩れはあるものの,グリッド状の街区を今日に到るまで維持しています。しかしこの古代都市と近世都市の間の時代,いわゆる中世に造られた町は,教会と市役所のある広場を中心に円く城壁に囲まれ,狭い街路が入り組んだ不規則な市街が特徴です。
さて,バイロイト辺境伯がこのエアランゲンの町を新たに建設した理由はどこにあったのでしょうか。むろん西部領地の統治の中心にするためという動機があったのですが,実はもうひとつ,大きなきっかけとなったできごとがありました。それは,フランスからのユグノーの流入です。
宗教対立というと,宗教改革の発祥地ドイツのことが頭に浮かびますが,16世紀から17世紀のフランスも,ドイツと同じくらい,いや,それ以上に血なまぐさい宗教戦争の時代でした。1598年のアンリ4世によるナントの勅令で,カトリック,プロテスタント双方に同等の権利が与えられたのですが,約1世紀近く経った1685年,ルイ14世はこれを廃止し,プロテスタントを禁止する政策に転じます。これによってプロテスタント信徒は追放され,移民となって周辺国へ逃れます。彼らはカルヴァン派で,ユグノー,ドイツ語ではフゲノテ(Hugenotte)と呼ばれ,商工業に従事する産業の担い手でした。
ドイツの諸侯の中で,ブランデンブルク選帝侯領,つまり後のプロイセン王国はカルヴァン派でしたので,フゲノテの受け入れに積極的でした。同じくホーエンツォレルン家の分家筋に当たるバイロイト辺境伯はルター派でしたが,大量のフゲノテを受け入れました。ベルリンの影響かと思われます。彼らのために建設されたのが,他ならぬエアランゲンだったのです。
かつてのバイロイト領だった地域には,今でもこのフゲノテの子孫と称する人が多く住んでいて,私がバイロイト大学の図書館でおせわになった司書さんもそうでした。彼は私が苗字の読み方を間違えると,自分の家系を自慢するかのようにフランス語風の発音に訂正しました。もっとも移民としてやって来た人々と,元から住んでいたドイツ人の間に軋轢がなかったわけではなく,当初は受け入れ反対の抗議活動が起こったようです。
エアランゲンの中心にある簡素なデザインの教会も,フゲノテのために建てられたもので,今でもカルヴァン派に属しています。この教会の塔の上から見下ろすと,エアランゲンの町の格子状の街路がはっきりとわかります。