コラム

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2024/09/10

Nr.72 未来への扉(「独検2024冬」受験要項より)

粂川 麻里生 (慶應義塾大学教授・公益財団法人ドイツ語学文学振興会理事長)


その中央にドイツが位置しているヨーロッパは小規模な国々の集合体で,ほとんどの EU 加盟国には陸路でも移動することができます。すぐ外側にはトルコやシリアといった非ヨーロッパの国々もありますし,飛行機や船に乗れば,北アフリカなどにも2〜3時間で行けてしまいます。そういう場所ですから,「外国語学習」の意味も,島国日本とはだいぶ異なります。わが国では,特に英語を「学校の教科」として学び,入試に合格するために「良い点をとる」ことが勉強の目的になることが多いでしょう。ですがヨーロッパでは,外国語は第一に「コミュニケーションのツール」であり,「生活の手段」として学ばれます。言葉ができるほどに就職の選択肢は広がりますし,移民の人たちにとっては,現地の言葉を習得することが,長期の滞在を可能にする「扉」になります。

私がかつてデュッセルドルフのゲーテ・インスティトゥートでドイツ語教員の研修会に参加した時,別のクラスでドイツ語を学んでいるモロッコ人の青年に出会いました。彼は最上級クラス「C3」終了の試験を受けようとしていました。ですが,試験の日が近づくにつれて,彼の表情がどんどんこわばっていったのです。私は彼に「どうしたの? 試験があるから,緊張するのかい?」と訊きました。すると彼は,涙目になって,こう答えたのです。「そうなんだ,怖いんだよ。僕は短期の奨学金をもらって,ここでドイツ語を学んでいる。もしも,今回の試験に落ちてしまったら,モロッコに帰らなければならない。けれども,モロッコには僕がやりたい勉強のできる大学はないんだ。今回,帰されてしまったら,二度とヨーロッパで勉強するチャンスはない。そんなことになったら,死んだほうがマシだ!」

さいわい,彼は試験に受かってドイツの大学に入学し,のちには医学部に進学しました。独検を受験してくださる皆さんは,もちろん「死ぬ気」で受けていただく必要はありません。ただ,言葉を学ぶことは,誰にとっても「道を開く」ことであることは,意識していただくとよろしいのではないでしょうか。地理的にはかなり孤立した場所にある日本ですが,それでもインターネットや世界のグローバル化がドイツ語圏を私たちに近づけています。「ドイツ語を使って,何かやってみよう!」と思うほどに,学びは楽しくなり,人生は豊かになっていくことでしょう。