2024/07/04
Nr.71 ルートヴィヒ一世と二人の建築家――ゲルトナー
武井 香織(元筑波大学教授・公益財団法人ドイツ語学文学振興会評議員)
バイエルンのルートヴィヒ一世のもとで,ミュンヒェンを「イーザル河畔のアテネ」にする為に活躍した建築家として,前回紹介したレオ・フォン・クレンツェと並んで有名なのがフリードリッヒ・フォン・ゲルトナー(Friedrich von Gärtner, 1791-1847)です。
彼の作品の中でとりわけ私達ドイツ語学・文学関係者に関係が深いのは,ミュンヒェン大学本部棟でしょう。ミュンヒェン王宮前から北に真っ直ぐ伸びるルートヴィヒ通り(Ludwigstraße)は,クレンツェとゲルトナーが競って建てた名建築が豪壮な景観を造っていますが,その北端近くに位置するのがこの建物です。私はかつてドイツからルフトハンザ機で帰国した折り,機内の映画プログラムで『わが愛の譜 滝廉太郎物語』を見ました。その中で滝の留学先だったライプチヒ音楽院が,つい先日見たばかりのこのミュンヒェン大学の建物だったのでびっくりしたのを覚えています。大学本部棟の前の広場は「ショル兄妹広場(Geschwister-Scholl-Platz)」と名づけられていますが,これはナチスへの抵抗運動として名高い白バラ団(Weiße Rose)がここミュンヒェン大学を中心として活動し,主導した学生で処刑されたハンス・ショル(Hans Scholl)とゾフィー・ショル(Sophie Scholl)の兄妹を顕彰したものです。建物の外観はルネッサンス様式を基調としながらロマネスク様式も意識し,ゴシック様式のような尖頭アーチや鋭い塔はなく,厚めの壁の中に小さな丸アーチの窓が連続する,中世の修道院のような味付けがなされています。
大学本部棟の南側を通っているシェリング通り(Schellingstraße)は,書店やコピー屋さん,それにいかにも左翼学生のたまり場といった気配のカフェが並んでいる学生街の雰囲気が漂う町ですが,この通りの真正面に端正な外観のルートヴィヒ教会(Ludwigskirche)が見えます。大学付属教会としてカトリック信者の学生を教区員としているこの聖堂もゲルトナーの作品です。よく整った三角のファサードや尖塔は一見イタリアのゴシック様式のように見えるのですが,よく見るとこれもロマネスクを基調としています。シェリング通りはトーマス・マンの『トニオ・クレーガー』で,主人公のトニオが通う美術学校がある場所となっていますが,同じく画学生だったヒトラーが出入りしていたナチスの秘密集会所もここにありました。また大学のすぐ北隣,ルートヴィヒ通りの北端を区切って立つのが凱旋門(Siegestor)で,これもゲルトナーの作品です。
ゲルトナーの建築家人生で最高の瞬間は,バイエルン州立図書館(建設当時の名称では王立図書館)が完成し,落成に当たって建物全体を貫く大階段を国王ルートヴィヒ一世が一歩一歩登っていったときでしょう。建物の中心に大階段を置く設計は,多くの宮殿建築にも見られる伝統的な手法ですが,正面の長さ全体を横に貫くような壮大なものはゲルトナーの独創と言ってよく,内部空間に開放感とともに威厳を与える効果を持っています。
このほか,ゲルトナーの作品で忘れてはならないのは,ギリシャの首都アテネの国会議事堂です。2010年ころギリシャが財政危機に陥ったときには,日本のテレビにも盛んに映った建物です。オスマン帝国から独立して1832年に成立したギリシャ王国は,バイエルンのヴィッテルスバッハ家から,ルートヴィヒ一世の次男オットーを国王として迎え,彼はオソン一世として即位します。彼のための王宮として建てられたものが,現在は議事堂になっているわけです。
ゲルトナーは古典主義者のクレンツェに比べると,同時代のロマン主義に近い精神を持っていたように思われます。ゴシックに比べ簡素で素朴な中世の雰囲気を代表するロマネスク様式を取り入れたのも,そんな彼の感性に合っていたからかも知れません。「イーザル河畔のアテネ」と豪語していたミュンヒェンですが,それでも壮麗さの中にどこか優しい表情を持った町並みに感じられるのは,ゲルトナーのおかげかも知れません。