2022/03/01
Nr.58 ルター博士の格言
武井 香織(元筑波大学教授・公益財団法人ドイツ語学文学振興会理事)
宗教改革で有名なマルティン・ルター(Martin Luther,1483-1546)は,ドイツ語の歴史においても大変重要な役割を果たした人です。グーテンベルクが発明した活版印刷の技術が普及し始めたことによって,彼の主張はビラやパンフレットに載ってドイツ中に広まりました。また彼の翻訳した聖書が一般の人にも読まれたことから,彼の用いたドイツ語がその後のドイツ語標準語の形成に大きな影響を与えました。
ところで,ルターは格言の名手でした。次の格言は彼の造った一句ですが,括弧の中にはどんな言葉が入るか,当ててみてください。
Für die Toten Wein, für die Lebenden Wasser: Das ist eine Vorschrift für( ).
「死んだものにはワインを,生きているものには水を。これが( )に対する処方箋だ。」
修道士から神学の教授になって,「信仰」について語った人なので,お葬式のような宗教儀式についてのお説教かと思うかも知れませんが,そうではありません。
答えは Fische「魚」(Fisch の複数形)です。
つまり,釣ってきた魚はいきの良さを保つために水の中に泳がせておき,料理するときにはワインをかける,これが魚の正しい扱い方だ,というわけです。
これなどはどうでしょう。
Wer nicht liebt Wein, Weib und Gesang, der bleibt ein Narr sein Leben lang.
「酒と女と歌を愛さないものは,一生愚か者のままだ。」
もっともこれは,ルターではなく,18世紀後半の詩人グループ「ゲッティンゲン杜(もり)の仲間」の代表者フォス(Johann Heinrich Voß, 1751-1826)の創作だとも言われていますが,今日でもドイツの居酒屋(クナイペ Kneipe といいます)の壁に掲げてあるのをよく目にするほど人口に膾炙した格言です。またヨーハン・シュトラウス二世のワルツの題名としても知られていますよね。
Der Wein ist stark, der König ist stärker, die Weiber noch stärker, die Wahrheit am allerstärksten.
「酒は強い,王は酒より強い,女はさらに強い,そしてもっとも強いのは真理である。」
宗教家らしく真理を持ち出すにしても,まず酒や王様,女性と世俗の事柄を揚げて,戯れ言の風を装った上で,最後にびしっと決めています。
ルターの格言を読むと,私は彼が居酒屋でグラスを片手に,格言を得意げに披露しているような光景を想像してしまいます。
このようにみてくると,ルター博士,神様のことばかり考えていた堅物というよりは,世間の人と交わって会話を楽しみ,人生を楽しむことを知っていた好人物のように思えます。
歴史の教科書では宗教改革時代のドイツ人について,中世以来の素朴な信仰心を抱き続けてローマ教皇に搾取されていたあわれな国民という側面が強調されていますが,実は経済が発展して豊かな市民が多く,特に中部のチューリンゲンやザクセンには多くの都市が勃興し,世俗の文化が栄えました。同じ頃のイタリア・ルネッサンスと似た状況だったわけです。例えばルターの友人で彼と同じヴィッテンベルクにアトリエを構えていた画家のルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach,1472-1553)は,多くの弟子を抱えて絵画を注文に応じて制作し,また一般市民向けに安価で仕上がる版画を刷って売りさばいていました。それだけ美術品への需要があり,マーケットや流通の仕組みができていたということです。クラナッハの絵を見ると,町に住んでいる隣人の人柄をリアルにとらえていて,ちょっと漫画のような巧みな性格分けを楽しむことができます。また伝説の貞女ルクレチアやギリシャの美神ヴィーナスのような女性を描いた作品では,この世を超越した存在というより,誰もが魅力を感じるこの世的な美女のエロチックな肉体が強調されています。これは明らかに買い手の好みを意識した結果でしょう。
このように,16世紀のドイツは,世俗的な文化の爛熟した社会でした。そしてルター博士も,あの世の神様ではなく,実はこの世の人間が大好きな人だったのではないでしょうか。