コラム

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2017/03/01

Nr.43 もう少し,プラハの話をしましょうか

富山 典彦(成城大学教授・独検実行委員)


このウェブサイトのコラムを書き始めて,ドイツ語圏の国々のさまざまな風景が,思い出そうともしないのに,いろいろ浮かんでくるようになりました。ドイツ語を学んでいらっしゃる皆さんも,心の奥の記憶のページに,ドイツ語を学ぶことで得られた風景を,ひとつひとつ書き込んでくださいね。

さて前回は,現在はもう「ドイツ語圏の国々」に入らないチェコのプラハのことを書きました。フランツ・カフカを研究テーマとしてドイツ文学の道に入った者として,もうドイツ語圏でないとしても,やはりプラハをはずすわけにはいきません。

プラハというと,ユダヤ教のシナゴーグのある旧市街をまず思い出します。この旧市街とボヘミア王国の宮廷フラチーン城とのあいだには,モルダウ川がゆったりと流れています。このモルダウ川にかかるいくつかの橋のなかでいちばん有名なのは,聖人の像がいくつも立っているカレル橋です。それらの聖人像の中央に立っているのが聖ネポムク。この川で殉教した聖人です。なお,このカレル橋という名前は,ルクセンブルク家の皇帝カール四世(1316~78)からきています。彼は,ボヘミア王としてはカレル一世だったのです。

この時代にはもう,チェコ人の王族であるプシェミスル家は滅亡していて,ルクセンブルク家に支配されたあと,最終的にはハプスブルク家が,1526年から1918年まで,ボヘミア王国を支配します。そのため,プラハではなにかと不人気のハプスブルク家です。

10日間のプラハ滞在のため,市内のホテルではなく郊外の民家に宿泊したのですが,その民家は,都心から地下鉄で南に下ったところにありました。その近くに,ヴィシェフラトという,古い城跡のある小高い崖が,モルダウ川沿いにそびえ立っています。

このヴィシェフラトこそ,プラハの街ができる以前に,リブシェという,まるで古代ギリシャの予言者のような女性が,プラハという都市の成立を予言した場所ということになっています。この崖の上から眺めると,モルダウ川,チェコ語で言うとヴルタヴァ川が北に流れ,途中でほぼ90度の角度で東に流れているのが見えます。ちょうどその曲がり角のところに,プラハの旧市街とフラチーン城があるのです。

リブシェの伝説から,チェコ人の音楽家スメタナはオペラを作曲しましたが,オーストリア人の劇作家フランツ・グリルパルツァーも,『リブッサ』という劇を書いています。プシェミスル家がボヘミア王になったのも,この女予言者の予言からきているのですが,ヴィシェフラトこそまさに,チェコのルーツと言っていいでしょう。

ということで,実は,ここにはチェコ人だけの墓地があります。スメタナに並ぶチェコの音楽家ドヴォルザークの墓もここにあるというので,墓地を散策してみました。

ヨーロッパの墓は,「○○家の墓」というのではなく,個人の墓です。「ドヴォルザーク」などという変わった名前だから,すぐに見つかるだろうと甘く考えていたら,なんと,至る所「ドヴォルザーク」さんの墓ばかり。あのドヴォルザークの Vorname は何だったかと,思い出そうとしてみても,頭のなかはもう真っ白で,結局ドヴォルザークという,われわれにとっては変わった名前でも,チェコではふつうの名前だと知って,ヴィシェフラトを降りたのでした。

墓の話のついでに,カフカの墓は,プラハ旧市街から東に少し離れた,ジジコフという労働者地区のユダヤ人墓地にあります。こちらは,すでに写真でその墓石の形も知っていましたから,簡単に見つかるものと考えていたところ,ユダヤ人墓地のなかをいくら歩き回ってみても,カフカのカの字にも出会いません。まるで,カフカの作品世界のなかに迷い込んでしまったかのようでした。

さすがカフカだと,いよいよ墓地の門が閉められる時間まで歩き回って,外に出ました。外に出てみたところ,ぼくがいたのは新しいユダヤ人墓地で,カフカの墓はその隣の古いユダヤ人墓地にあったのでした。すでに鉄の扉が閉ざされた古い墓地の入口には,カフカの墓を示す矢印が立っていたのでした。