コラム

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2011/12/12

Nr.35 「ドイツ語のセンセイ」の恥ずかしい回想記 (5)

粂川 麻里生 (慶應義塾大学教授・独検実行委員)


漫画『巨人の星』の星一徹そのものだったスパルタ式の父に促され,中学に上がったばかりの私は,毎日体育館に「接近」しました。接近して,体育館のドアのすき間から,中を覗き見ただけです。

「うおおおおおお!」
「どりゃああああ!」

という,ものすごい気合とともに,触ったら手が腫れ上がってしまいそうな勢いのバレーボールが,体育館中を飛び交っていました。
これが,栃木県大会8連覇,関東大会2連覇中の超名門中学バレーボール部の練習でした。
私はもうアニメ『ミュンヘンへの道』への憧れなどあっさりどこかにふっとんでしまって,ただただ,その迫力に目を見張っていました。

しかし,目を見張っているだけではいけません。この,この恐ろしい集団に,自分も入部しなくてはならないのです。
よく見ると,町の小学校運動交換会で,それぞれの小学校から女の子たちの黄色い声援を背に,代表選手として出ていた見なれた顔たちがありました。彼らは皆,緊張した表情でコートの端で球拾いをしていました。

あのエリートたちが,心細そうな顔で球拾いをしている! 彼らに比べたら,小学校5年生まで体育の授業は見学オンリーだった私など,身体障害者のようなものです(ほんとうの身障者の方々にそんなことを言ったら,「そんな甘いもんじゃない!」とおっしゃるに決まっているけれど,当時の私の幼い心はそう思ってしまったのです)。

それでも,1時間くらい,私は体育館のドアのすき間から覗いていたでしょうか。
それで結局,「ま,まあ,今日はかなり練習を見学したってことで……」と帰ることにしました。

そして,家の夕食でさっそく父。
「麻里生,バレーボール部に入ったか?」
「ん? んんんんんんん,ま,まあ,まあ,まだです」
「なんだ。俺は,もう監督に『うちの息子をお願いします』と言ってあるんだ。入ってこなくちゃだめじゃないか。体育館には行ったのか?」
「い,行った。行ったよ,もちろん。」
「練習をしていただろう」
「はい」
「ああそうか,厳しい練習を絶え間なく続けているから,入っていくタイミングが分からなかったかな」
「あ? ああああ,そうそう。なかなか,踏み込めなくてね」
「いいんだ。そういうのは,ある程度仕方ないんだ。体育館の端を,邪魔にならないように歩いていって,監督に『粂川です。お願いします』と言えば,あとは分かってくださるよ」
「わかった。あした,あしたは入ってきます。今日は,見学だけで随分時間が立っちゃったから」
「見学はしたのか」
「うん,ドアのすき間からだけど」
「なんだ情けない! 見学するにしても,ちゃんと監督と先輩の皆さんに挨拶して,しっかり体育館の中で見学をさせてもらっていいんだ。まあ,たぶん『球拾いを手伝いなさい』などと言われるだろうけどな。お前は,ずっとドアのすき間から,泥棒みたいに覗いていたのか?」
「泥棒じゃないけど……,まあ,そう」
「いいか,お前はたしかに運動は苦手だ。しかし,それと,おどおどした態度をとることは関係がない。運動が大の苦手のお前が,強豪のバレーボール部に入っていこうとしているんだ。気が楽じゃあないことは,お父さんも分かっている」
「た,た,たしかに,楽じゃあ……,ないねえ」
「それはわかる。しかし,そういう時こそ,必要以上に萎縮しちゃならんのだ。自分の力が劣っているときこそ,『それがどうした。なにくそ!』という気持ちにならなきゃいかん。」
「わ,わかった。あしたは,堂々と行ってみる」
「約束だぞ!ほら,ゆびきり。がんばれよ」
「うん。あ,あしたこそはね」

しかし,翌日も,そのまた翌日も,私はバレーボール部に入ることはできなかったのでした……。
(続く)