2010/04/12
Nr.30 ドイツ語圏 (18) スイスのドイツ語 (5)
諏訪 功 (一橋大学名誉教授・元独検出題委員)
スイスのドイツ語についてのおしゃべりも,もう5回目です。そろそろ具体的な単語や言い回しを挙げて,スイス・ドイツ語の実際の姿をご紹介しなければならないと思うのですが,これがなかなか難しいんですね。まず,「スイス・ドイツ語」(Schweizerdeutsch)という名称自体,定まりません。私の手元にある教則本の付属ビデオテープには Schwyzertütsch と書いてあるのですが,別な入門書のカセットには Schwiizertüütsch とあり,ほかに Schwyzerdütsch や Schwizerdütsch という書き方もあります。一般的な名称からしてこのようにはっきりしないほか,州(カントーン)によって微妙に異なる Baseldytsch 「バーゼル・ドイツ語」,Berndütsch 「ベルン・ドイツ語」,Züridütsch 「チューリヒ・ドイツ語」等々があって,それぞれ正統性を主張しているわけですから,どこからどのような語,例文をひけばいいのか,まったく困り果てます。スイス・ドイツ語がなによりもまず口頭の言語,つまり話し,聞くための言語であって,統一的な読み書きの言葉ではないという理由によります。したがって,ここでは,スイス・ドイツ語の単語や言い回しのうち,ドイツ語圏に広く知られていて,なかば標準語になりかかっているものをいくつかご紹介するにとど めます。日本語の例ですと,「おおきに」(=ありがとう),「おいでやす」(=いらっしゃいませ)などのように,関西の響きを伴いながらも,ちゃんと標準語の辞書にも記載されている単語や言い回しです。
Grüez! これはドイツ南部やオーストリアの Grüß Gott! と同じく,1日のどの時間にも使えるあいさつです。[グリュエツィ]とでも表記すれば,だいたい近似的な発音表記になるでしょう。訳はその時に応じて,「おはよう」にも,「こんにちは」にも,「こんばんは」にも,「さようなら」にもなります。ふつうの間柄の相手には,この言い方でよびかけてください。元来は Gott grüezi-i (=Gott grüße Euch!)という要求話法ですから,動詞の形は接続法第1式ということになりますね。
Salü! 親しい間柄の相手に対する別れのあいさつです。Sali とも言います。ともにフランス語の Salut から来ています。このほかにも,スイス・ドイツ語には,ドイツやオーストリアでは用いられないような,フランス語からの借用語があります。たとえば Perron 「プラットフォーム」,Billet 「きっぷ」などがそうで,フランス語の発音のまま,ドイツ語にまじえて使われます。中には „Merci vielmals!“ のように,前半がフランス語,後半がドイツ語という混成の表現もあります。
Müesli これはオートミールに干しブドウや細かく挽いたアーモンドなどを混ぜ,ミルクや蜂蜜を加えた食べ物です。美容と健康にたいへんいいとされ,朝食などに好んで食べられます。発音はほぼ[ミュアスリ]です。 -li というのは標準ドイツ語の -chen,または -lein に当たる縮小の後つづりで,スイス・ドイツ語の特徴的な造語成分です。Mus 「(果物,野菜などをすりつぶした)ムース」という語の方言形 Mues があり,その後ろに縮小の語尾 -li をつけ,語幹の母音をウムラウトすると Müesli という形になります。なんだか鳥のえさみたいで,私はあまり食べたいとは思いませんが,この食べ物のファンは多いようで,英語の辞書にも muesli belt という表現が載っていました。《ムースリベルト。健康食品好みの中産階級の人々が多く住む地域》だそうです*。マクドナルド・ハンバーガーとかケンタッキー・フライドチキンなどを大量に貪り食う一般庶民と対比的に,カロリーに気をつけ,ダイエットを心がけているエリート層の人々が多く住む地域のことです。しかし,ご用心。この健康食品を中心とするダイエットをやりすぎて,逆に健康を害してしまう女性もまれではありません。なにごともやり過ぎはいけませんね。
話はすこし横道にそれます。同じムースリ(ミューズリー)でも,ドイツ本国やオーストリアでは,Mus から導き出された Müsli,つまり真ん中に -e- がない語形を使います。本場のスイスの Müesli では,真ん中に -e- が入っています。-e- の有無などどうでもいいじゃないか,という人がいるかもしれませんが,そうは行きません。-e- のない Müsli(あるい Müüsli)は,スイスでは「小さなネズミ」を意味することになってしまいます。なぜでしょうか。すこし話がくどくなりますが,おつきあいください。
11世紀半ばから14世紀半ばまで,ドイツ語圏の南部で用いられ,しだいに現代の標準ドイツ語に変化していった中世高地ドイツ語(略して中高ドイツ語)では,mûs という語が現代語の Maus 「ネズミ」を意味していました。時の流れのうちに,標準ドイツ語では mûs → Maus というふうに,長母音の û が二重母音の au に変化しましたが,スイスのドイツ語はこの変化に同調しませんでした。たとえば hûs 「家」は標準ドイツ語では Haus になりましたが,スイス・ドイツ語では hûs(あるいは Huus)のままです。mûs 「ネズミ」も Maus とならず,mûs(あるいは Muus)のままですから,これをウムラウトして -li をつけると Müsli(または Müüsli)「小さなネズミ」ができます。もう一つ例を引きましょう。Liebe「愛」の中の -ie- は,標準ドイツ語では[イー]と長母音と発音され,全体は[リーベ]となりますが,スイス・ドイツ語では -ie- を[イエ]と別々に発音していた中高ドイツ語の昔をそのままとどめて[リエベ]と二重母音で発音されます。これらの例が示すように,一般にスイス・ドイツ語は,母音の体系に関しては古い時代のドイツ語の姿を今も残している由緒正しい言葉なんですね。いずれにせよ,スイスの健康食品の名称は Müesli であって,Müsli(あるいはMüüsli)ではありません。「毎朝,小さいネズミにミルクと蜂蜜をかけて食べる」のは,かなり気持ちの悪い想像ですね。
「小さなネズミ」はドイツでは Maus に縮小の後つづり -chen をつけて Mäuschen と言い,これは恋人への呼びかけとしても使われます。ヨーハン・シュトラウスのオペレッタ『こうもり』の第一幕には,Mauserl「小ネズミちゃん」という呼び方が出てきますが,これは Maus に -erl というおなじみのウィーン風縮小後つづりをつけた形です。これにチューリヒでは Müsli(または Müüsli)が対応するのだろうと思いますが,さて実際はどうでしょうか。現地調査をしなければならない場所がまた増えました。
話はどんどん横道にそれます。みなさんは Stimulus という語をご存知でしょうか。元来は「刺激」,「衝動」などを意味するラテン語で,複数形はラテン語の形をそのまま使って Stimuli です。英和辞典にも独和辞典にも,単数 Stimulus,複数 Stimuli という形でそのまま出てきます。「刺激と反応」などというふうに組み合わされて,心理学などでよく使われる語ですが,ここではべつに心理学の話をしようというのではありません。放送局でスタジオ録音などをするとき,プロデューサーが出演者に出す「合図」,「きっかけ」という意味での Stimulus の話です**。たとえば「私が合図したら(読み始めてください)」などと言いたいときは,auf meinen Stimulus hin 「私の Stimulus に応じて」と言えますし,その複数形は auf meine Stimuli hin となります。この Stimuli が,ドイツ人には Stimulus 「刺激」の複数形ではなく,どうも Stimme 「声」のスイス風縮小形 Stimmli 「小さな声」と聞こえるらしいのですね。今から数十年前,ドイツ語講座の音声素材をドイツ人といっしょに録音していたとき,auf meine Stimuli hin という私の指示に対し,ドイツ人が目を丸くして絶句し,2,3秒して笑い出したことがあります。「すぐに Stimuli → Stimulus というラテン語に思い当たったから,あなたの言いたいことはわかったけれど,最初はびっくりした。なんでいきなりスイスのドイツ語がでてきたんだろうと思ってね」というのが,そのドイツ人の弁解でした。Stimulus という難しい単語を,しかも Stimuli という複数形で使うなどというめんどうなことはせず,„Wenn ich Ihnen ein Zeichen gebe, … “ 「あなたに合図を出したら …(読み始めてください)」などと,やさしく言えばよかったと思いましたが,後の祭りでした。どうも万事,言い方が不必要にまわりくどく,難しくなる … これはわたしを含めて,日本の年寄りのドイツ語教師に多い欠陥かもしれませんね。
* 『リーダーズ英和辞典』研究社1999
** ただし日本のスタジオでは Stimulus などという難しい語は使わず,英語の cue をそのまま使って「キューを出す」と言います。