2008/08/20
Nr.24 ドイツ語圏 (13) オーストリア (11)
諏訪 功 (一橋大学名誉教授・元独検出題委員)
オーストリアに Creditanstalt-Bankverein という銀行がありました。「ありました」と過去形で書く理由は,ここ数年の金融機関再編の動きのなかで名称変更があり,2008年現在は Bank Austria Creditanstalt となっているからです。いつまでこの Creditanstalt という部分が銀行名の中に残るか,それはわかりません。
しばらく前,某一流新聞の経済欄にこの銀行に関する記事が載っていました。ところがその名称の日本語表記が「クレディタンシュタルト」となっていました*。ドイツ語の長い合成語(複合語とも言います)をしょっちゅう目にしているみなさんは,この日本語表記の間違いにすぐ気づきますね。この語は Credit+Anstalt と分解されます。 Credit は Kredit 「クレディット,信用貸し」の古い表記法, Anstalt は「(公共の)施設,企業」です。発音するときは[クレディト]のあと一拍おき,改めて[アンシュタルト]と出直さなければなりません。つまり日本語では「クレディト・アンシュタルト」でなければならず,上掲の新聞記事のように,Credit の最後の子音 -t を次の Anstalt の最初の母音 a とくっつけて「…タンシュタルト」とするのはだめです。
ここで「声門閉鎖音」(「咽頭閉鎖音」とも言います)について復習しておきましょう。
肺から出た呼気は左右一対の気管支を通り,1本の気管に合して,咽頭,俗にのどぼとけと呼ばれるところに達します。ここには声帯 (Stimmbänder ⁄ Stimmlippen) があり,この声帯の間を声門 (Stimmritze ⁄ Glottis) と言います。この声門を閉鎖して息を止めておき,急にこの閉鎖をゆるめて息を通すと,無声の閉鎖音が生じます。これが「声門閉鎖音 ⁄ 咽頭閉鎖音」です。音声記号では[ʔ] で表します。疑問符「?」の下の点を取り去ったような記号です。Dudenの発音辞典では [ǀ] で表されています。
ドイツ語の母音は,語頭では,声門が閉鎖された状態から発音されます。 Anstalt の音声表記は,厳密には [ánʃtalt] でなく,声門閉鎖音を最初につけた [ʔánʃtalt] です。発声器官を緊張させておき,その緊張を急に解放するわけですから,日本語で無理に表記すれば,つまる音を表す「ッ」を頭につけて,[ッアンシュタルト]と言った感じの音です。「まったく!!」を強調して「ったく!!」とする表記法を最近ときどき見かけますが,息をぎゅっとつめ,一気に強く次の「たく」を発音する感じをうまく表現していますね。 Kreditanstalt のような合成語でも同じことで, Kredit と発音した後一拍置くような感じで,発音器官を改めて緊張させてから Anstalt と続けます。発音表記は[kredítʔánʃtalt] です。くどいようですが,日本語表記は「クレディト・アンシュタルト」であり,「クレディタンシュタルト」ではありません。 Wochenende 「週末」などもこれと同じで, Wochen- と言った後,声門閉鎖を入れて -ende と続けます。発音は[ヴォヘン・エンデ]です。[ヴォヘネンデ]ではありません。母音で始まる単語や形態素(意味を持つ音声の連続)を意識し,切れ目で一拍置いて発音する感じでやれば,自然と声門閉鎖が入ると思います。
Bankverein の Verein も,ver+ein と分けることができます。 ver- という前綴りの後に続く形態素 -ein は母音で始まりますから,その前に,やはり声門閉鎖音が入るはずです。発音は[フェア・アイン]または[フェル・アイン]です。[フェライン]ではありません。
話は急に変わるようですが,元旦に行われるウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート」は,テレビ中継のおかげで,「紅白歌合戦」並みの人気番組になりましたね。あの演奏会は「ウィーン楽友協会」の建物の中の大ホールで行われますが,「楽友協会」は短く Musikverein と呼ばれています。日本語ではふつう「ムジーク・フェライン」です。 Ver+ein と正しく切り,間に声門閉鎖音を入れた発音を再現した「フェア・アイン」または「フェル・アイン」という表記は見たことがありません。ふつうの人たちより耳が鋭いはずの日本の音楽家や評論家が,-ein の前の声門閉鎖を聞き落とし, Ver- の最後の r と -ein をくっつけて[フェライン]とするとは何事か,と弾劾してもいいのですが,ちょっとお待ちください。今まで言ってきたことと矛盾しますが,ひょっとすると「フェライン」という表記でも,実際の発音をある程度,反映しているのではないか,と思います。もっともこれは自分でちゃんと確かめていない,はなはだ根拠薄弱な仮説にすぎませんので,そのおつもりで。
その仮説とは,「Verein という語において, Ver- の後, -ein の前に入る声門閉鎖は,ウィーンの発音では標準ドイツ語よりもだいぶ弱く,全体が比較的なだらかに発音される。そのため[フェル・アイン]または[フェア・アイン]よりはむしろその中間の音,つまり[フェライン]に近く聞こえるのではないだろうか」というものです。たとえば beobachten 「観察する」という動詞ですが,標準ドイツ語では be- の後, -obachten の前に声門閉鎖が入り, [bəʔóːbaxtən] となりますが,「オーストリアでは be- と o の間ではそうしたことがない」という観察があります**。また「語頭の母音が咽頭閉鎖音を先行させることは Bühnensprache (舞台標準発音)のもとめるところであるが……総じて Hd. (=高地ドイツ語)はそれを知らない」と明言している参考書もあります***。さらに beachten [bəʔáxtən], entarten [entʔártən] などの場合はどうでしょうか。これらの場合すべてにわたって,声門閉鎖音がかなり弱いと実証されれば,これはウィーンのドイツ語のやわらかな響きを成り立たせている要因の一つと考えられるかも知れません。どなたか,こういう実証研究がお好きな人は,ぜひ確かめてください。
オーストリアの政治家などで,いかにも特徴的なウィーンなまりで話す人々がいます。今までにお話ししたウィーン風の発音のさまざまな特徴に,鼻にかかった母音がプラスされると,なんだか骨がないような,フニャフニャしたドイツ語になります。こういうドイツ語を聞くと,私などは,「もう少し歯切れよく,てきぱきと話したらどうなんだ!」と,ついついイライラします。このせいでしょうか,私はときどきこういうドイツ語から逃れて,ドイツへ脱走しました。日本で習っていたドイツ語,声門閉鎖音がはっきりしていて歯切れがよく,有声と無声が明確に区別され,母音が規範どおり発音されるドイツの標準語を聞くためです。東京出身の人が関西でしばらく暮らし,「言うた」,「買うた」,「眠とうて,眠とうて」など,おだやかな響きに馴染むと同時になんとなく鬱屈して,ときどきは「言った」,「買った」,「眠くって,眠くって」など,東のきつい発音を聞きたくなるのと似ています。もっとも,しばらくドイツ的秩序のなかで暮らすと,今度はそれが息苦しくなり,逆方向の逃走を試みたくなります。そのようなとき,ドイツからウィーンへ戻る帰りの食堂車などで,やわらかいウィーンなまりのドイツ語を話すウェイターに出会ったりすると,うれしくなってついチップをはずんだりすることもありました。ドイツ語の二つのヴァリエーションに対する私の態度も,愛憎定かならず,というところでしょうか。
* もっともこの大新聞社はふだんからドイツ語にあまり重きを置いていないらしく,ほかにもちょくちょくドイツ語教師の癇に障るようなヘマをやります。数年前,ベルリンの旧帝国議会の建物が修復され,連邦議会になったことが報道されました。そのときの記事で,旧帝国議会に Reichstag というドイツ語の名称を添えたのはいいのですが,日本語表記が「ライヒスタグ」となっていました。 Reichstag は Reichs-tag と分けられますが,後半の tag は Guten Tag! の Tag と同じ単語ですし,ベルリンの話ですから,「ライヒス・ターク」と表記するのが筋だろうと思いますが,みなさんのお考えはいかがでしょうか。この記事を書いた記者は,アメリカに長く滞在していたそうですが,アメリカでは Reichstag を「ライヒスタグ」と言うのでしょうか。私などは「タグ」と言われると,英語の tag 「名札」,「荷札」を連想してしまいます。いずれにせよ,それ以来,この記者の書いた記事は読まないことに決めています。
** 河野純一著 『ウィーンのドイツ語』(八潮出版社2006年)34-35ページ。ドイツ語一般についての入門書,概説書,研究書は日本でもたくさん出ていますが,一都市のドイツ語の特徴をこれほど広範に網羅し,掘り下げた研究書は,おそらくこの本が始めてだろうと思います。ウィーンのドイツ語についてご関心がおありの向きは,ぜひお手にとってごらんになることをお勧めします。
*** 田中泰三著 『ドイツ方言』(郁文堂1956年)6ページ。具体例としてドイツ古典主義の二人の大立者のドイツ語が挙げられています:「… Schiller も „Die Räuber“ のなかで errinnern と書いており,Goethe も Aristides にあわせて entschied es と韻をふんでいる」。errinnern という表記からは,[エア・インネルン]ではなく[エリンネルン]という発音が推定されるし,アリスティーデスと entschied es で韻をふませるからには, entschied es を[エントシート・エス]ではなく[エントシーデス]と発音していたにちがいない,ということです。もっとも, -r- がひとつしかない erinnern にも,2つ目の声門閉鎖がない [ʔerínərn] という発音がよく聞かれます。さらに hab’ ich が [haːp ʔɪç] ではなく, [háːbɪç] と発音され, will ich が [vɪl ʔɪç] ではなく,しばしば [vílɪç] と発音されますから, entschied es も声門閉鎖を不徹底にしたまま発音し, Aristides というギリシャの人名と韻を踏ませることもありえます。これは微妙な境界現象なのかも知れません。