コラム

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2008/07/30

Nr.22 ドイツ語圏 (12) オーストリア (10)

諏訪 功 (一橋大学名誉教授・元独検出題委員)


前回の後半では,ウィーンの市電のアナウンスをもとに,⁄p⁄ と ⁄b⁄ ,⁄t⁄ と ⁄d⁄ ,⁄k⁄ と ⁄g⁄ のペアーが,そのどちらともつかない音で発音される,少なくとも私の耳にはそう聞こえる例をご紹介しました。ちなみに,このアナウンスは,ウィーン市交通 局の特定の男性が全路線を一手に引き受けてやっているらしく,しかもずっと交代がありません。2007年春にも,久しぶりで乗った市電の中で,昔と変わらない世にものんびりした「ゴーン」という合図音のあと,1983年に初めて聞いたなつかしい声が流れてきました。当時は存在していなかった場所,たとえば 鉄道の西駅から地下鉄U3に連絡するエレベーターの中のアナウンスもこの男性の声でしたから,今でも現役で元気に活躍しているようです。停留所や駅の名前,路線名に含まれる数字,乗り換え案内の言い回しなどは当然わかっていますから,このアナウンスは,標準ドイツ語がウィーンでどのように発音されるかを味わうためには,うってつけの音声資料です。どのような方か,もちろん面識はありませんが,私にとっては大切な先生です。この先生のアナウンスに基づき,ウィーン風の発音にもう少し耳を傾けて見ましょう。

s はあまり濁らない
初級の授業で習ったとおり,標準発音では,s は母音の前では濁りますね。sie は[ズィー],Sommer は[ンマー]です。しかし市電のアナウンスでは,どうも s の濁り方が不徹底で,たとえばウィーンの二つの場所:Simmering と Sievering は,それぞれ[ィメリング],[ィーファリング]に近く聞こえます。この「 s があまり濁らない傾向」(「 s の無声化」)は,南のドイツ語の一般的な特徴のようで,ドイツ語教科書の付属音声教材を作るときなど,母国語話者と意見が分かれることがあります。ある教科書に,夏の音楽祭で有名なオーストリアの町 Salzburg のことが出てきました。吹き込み者は偶然この Salzburg 出身のオーストリア人でしたが,録音前の打ち合わせのときに,「私は Salzburg で生まれ育ったが,生まれてこの方,一度も Salz- をはっきりザルツと濁ったことはなく,ザルツブルクと言ったことはない。ほかの点では妥協するが, なんとかあまり濁らない発音で[ルツブルク]と発音したい」という要望が出されました。Duden の発音辞典には,もちろん [ˈzaltsbʊrk][ルツブルク]となっていたのですが,結局,「ザ」とも「サ」とも聞こえる語頭音で発音してもらったことを覚えています。

w は弱く[ヴ]
w は英語の v のように,上歯を下唇に軽く押し当てて「ヴァ,ヴィ,ヴ,ヴェ,ヴォ」と発音します。これもは初級の授業で習いましたね。発音記号でも [v] で表します。しかしドイツ語の [v] は,英語の [v] ほど強くなく,とくにウィーンでは摩擦も息も弱まり,むしろワ行の [w] に近く聞こえます。[v] の発音がむずかしければ,ウィーン式に [w] で発音してもかまいませんが,日本人がよくやるように,[v] を両唇の閉鎖音に変えて [b] と発音するのは絶対にやめてください。wir 「我々は」を[ウィーア]に近く発音しても,ちゃんとわかってもらえますが,[ビーア]と発音すると,Bier 「ビール」になってしまいます。Wein 「ぶどう酒」の代わりに Bein 「脚」を飲むのも好ましくありません。Wien[ヴィーン]をやわらかく[ウィーン]と発音してもかまいませんが,[ビーン]は絶対にだめです*。

語尾の -ig は[-イク]
観光客用ホイリゲが立ち並ぶ Grinzing へ向かう市電38番は,有名な酔っ払い路線です。町へ戻る深夜の車内は,さまざまな段階の酩酊状態にある Zecher 「酒飲み」でいっぱいです。38 はもちろん achtunddreißig[アハト・ウント・ドイスィヒ]ですが,ウィーンでは語尾の -ig が[イク]と発音され,[アハト・ウント・ドイスィク]となるのがふつうです。実はウィーンやオーストリアに限らず,ドイツ本国も含めたドイツ語圏の人々の半数くらいは,語尾の -ig を[イク]と発音しています。しかし標準発音ではあくまでも[イヒ]ですから,みなさんは dreißig を[ドイスィヒ],ledig 「独身の」を[ーディヒ],König 「王」を[ーニヒ]と発音してください。ただ[ドイスィク],[ーディク],[ーニク]と発音するドイツ語話者に出会っても面食らわないようにしましょう。標準発音とずれていても,これも立派なドイツ語なのですから。

ch の綴りが標準ドイツ語と違った発音になる例
China 「中国」,Chemie 「化学」などは,標準発音では[ーナ],[ヒェー]ですが,オーストリアやスイスでは[ーナ],[ケー]と発音されます。いわゆる「ich の音 [ç] 」の代わりに [k] が発音されるわけです。ついでながら,たとえば durch 「…を通って」の最後の ch は,いわゆる「ach の音 [x] 」に近く聞こえます。つまり,はっきり[ドゥルヒ]と聞こえず,最後の[ヒ]が口の奥にこもり,auch や Buch の -ch,軟口蓋のかすれ音のように響きます。

市電の車内放送を手がかりにして,標準発音と異なるウィーンの発音のいくつかをお話ししてきましたが,実は話の種はまだまだ尽きません。今までは子音の話でしたが,たとえば母音の a はほとんどの場合,すこし口の奥にこもって発音され,[ア]よりは[オ]に近く聞こえます。前回引き合いに出した Palffygasse の後半 Gasse は,語頭音が G か K か聞き分けにくいほか,[ガッセ]よりは[ゴッセ]に近いくらい,a が o に近く響きます。さらにまた標準語では ei と記し,[アイ]と発音される二重母音は[エイ]に近く響きます。車内放送でしょっちゅう耳にする動詞 umsteigen[ムシュタイゲン]「乗り換える」は,どうも[ムシュテイゲン]とも聞こえます。「ei と記して[アイ]と発音する」という初歩の規則をなかなか覚えず,steigen[シュイゲン]をいつまでも経っても[シュイゲン]と読み,keiner[イナー]を[イナー]と読む日本の初学者は,案外,ウィーン訛りのドイツ語を習得しようと志しているのかも知れませんね。

今までの記述でもおわかりのように,このコラムでは,あくまでも標準ドイツ語を中心とし,その「ウィーン風ヴァリエーション」を発音の面からご紹介してきました。我々外国人は,まず標準ドイツ語をきちんと学習すべきであり,そこから外れる方言形は,少なくとも最初のうちは,知識として知っておくだけでいいでしょう。とはいえ,これらの方言形によって支えられてはじめて,ウィーンの人々が話す標準ドイツ語の独特の響きが生まれることはお忘れなく。

それにしても発音のことを言葉で言い表すのは難しいことですね。最近はインターネットの発達のおかげで,たとえばオーストリアのラジオ局 ORF の放送をリアルタイムで聴くことも可能です(oe1.ORF.at)。「ウィーン風標準ドイツ語」の響きを実感したい方は,ぜひ聴取を試みてください。

ところで「ウィーン風標準ドイツ語」を実際にお聞きになると,今回のコラムでお話ししたとおり個々の母音や子音の発音が標準ドイツ語と微妙に異なるほか,全体の抑揚もなんだか柔らかくて,悪く言うとフニャフニャしているように聞こえませんか。次回はこの点について,少しおしゃべりを続けましょう。

* 「s はあまり濁らず」,「w は弱く」発音するわけですから,まったくの私事ですが,私の姓名「諏訪 功」,ローマ字表記で Suwa Isao は,ほぼ日本語どおりに発音してもらえます。ドイツに,一風変わった,とても面白い絵を描く Michael Sowa という画家がいて,私とよく似た姓なので,親しみを抱いていますが,彼の Sowa という姓も,ほぼ[ーワ]と発音されるでしょう。アクセントの違いを無視し,ふざけて漢字で記せば,「総和」,「挿話」となります。ただし -wa を両唇音の -ba にしないでください。[ーバ](「相場」?「蕎麦」?)になっては困ります。
w についてもう一つ蛇足。ドイツ語は「書いてあるとおり読む。書いてある文字は原則としてすべて発音する」と習いましたが,固有名詞の最後の w は書いてあってもときどき読まないことがあります。たとえば東西両ドイツの統一のころ活躍した東の政治家 Modrow の発音は,Duden 発音辞典では [ˈmoːdro] で,最後の w は読みません。ところがスラヴ系の固有名詞,たとえばソ連の外相だった Molotow などの場合は [ˈmoːlotɔf] というように w を [f] の音で読みます。この区別はかなりめんどうで,その名詞がどれほどドイツ語化しているかが判断基準のようですが,ウィーンではどうもスラヴ系の固有名詞を読むやり方,つまり w を [f] の音で読むやり方を,Duden に逆らって拡大適用しているようです。私は一度 Modrow の日本語表記を[モードロフ]とやって,若い同僚に注意されたことがありますが,今考えるとあれは一種のウィーンかぶれだったのでしょうね。