コラム

ここからページの本文です

2007/05/22

Nr.16 ドイツ語圏 (8) オーストリア (6)

諏訪 功 (一橋大学名誉教授・元独検出題委員)


前回は自家製の新酒を楽しむことができるウィーンの気楽な酒場: 「ホイリゲ」の話をしました。ホイリゲのワインはふつう4分の1リットル入りのジョッキで飲みます。 4分の1がドイツ語では Viertel と言われ,この ie が[フィアテル]と短く発音されることはご存知ですね*。 ジョッキは厚手のガラス製で,ビールジョッキのような握りがついています。 ホイリゲではこの4分の1リットルのワインのことを Vierterl と言います。8分の1リットルは Achtel ですが,これもホイリゲのワインの分量を指すときは Achterl となります。

ウィーンでは,この -erl または -l で終わる語をよく耳にします。 Wein 「ワイン」は Weinderl になりますし,Mädchen 「女の子」は Mädel または Madel となります。 この -erl または -l は,標準ドイツ語の -chen,-lein に当たり,元の語に「小さい」,「かわいい」,「親しい」などのニュアンスを付け加える縮小の後つづりなんですね。 ここでまたひとつ,私の失敗談をご披露しましょう。

ウィーン暮らしが始まって間もないころ,近所の電気屋さんで乾電池を買いました。ウィーンにかぎらず,ミュンヒェンなど南のドイツ語圏では,「今日は!」は „Guten Tag!“ でなく, „Grüß Gott!“ です。 あいさつのこの切り替えもうまく行き,こちらの買いたいものもすぐわかってもらえて,気をよくしていましたが,最後に店員が言ったことがまったくわかりませんでした。まだ耳に残っているその時の発音をカタカナで再現しますと,「ブラフン ズ ア サッカアル?」とでもなるでしょう。 なんとか標準ドイツ語に直して記しますと,次のような発言だったと思います。
„Brauchen Sie ein Sackerl?“ 「 Sackerl はお入用ですか?」

この Sackerl が何だかわからず,二,三度聞きなおして,やっとそれがいわゆるレジ袋,つまり買った品物を入れるポリエチレンなどでできた袋(標準ドイツ語では Tüte,Einkaufstüte,Plastiktüte )であることがわかりました。 Sackerl は,日本語にもはいっている Rucksack 「リュックサック」の後半部 Sack 「袋」の縮小名詞だったのですね。買い物の最後のところで,私が Piefke-Deutsch 「ドイツっぽのドイツ語」を話す人間で,ウィーンのドイツ語に慣れていないことがばれてしまう結果になりました**。

私の世代の大多数の人々がそうであるように,私はまず標準ドイツ語の書き言葉を習いました。その後,話し言葉を習い,両者の違いに戸惑ったのですが,幸いなことに私のつきあったドイツ語話者は,外国人である私に気を使って,できるだけ標準ドイツ語を使ってゆっくり,はっきり話してくれました。 そのかぎりで私もなんとかドイツ語を読み,書き,聞き,話していたのですが,だいぶ年をとってウィーンで暮らすようになって,話し言葉はもちろん,書き言葉もだいぶ標準ドイツ語と違うことに気づき,改めて自分のドイツ語が大学などを中心とする狭い範囲にしか通用しない偏ったものだったことを再確認したというわけです。

この Sackerl に含まれている後つづり -erl,語によっては -[e]l,これは,ウィーンのドイツ語のひとつの大きな特徴です。縮小名詞を作る標準ドイツ語の後つづりは,最初に申し上げたように -chen と -lein ですね。 たとえば Haus 「家」からは Häuschen [ホイスヒェン], Häuslein ができますが,ウィーンでは Häusl または Häuserl です。 Maus 「ねずみ」の縮小名詞は,標準ドイツ語では Mäuschen [モイスヒェン],Mäuslein ですが,ウィーンでは Mausl, Mauserl です。 しかもこの -erl,-[e]l のつけ方はかなりめんどうで,かならずしもきちんと規則的には行きません。 Haus → Häuserl では,もとの Haus の母音 au が äu というふうにウムラウトしていますが, Sack → Sackerl,Maus → Mauserl の場合は a → a,au → au というふうに,もとのままです。 また -n[e] で終わる語などは,-l ではなく,d をつけくわえて -dl とします。 Laterne 「街灯」は Laterndl, Henne 「めんどり」は Hendl, Mann 「男」は Mandl, Marianne という女性の名は, Mariandl となります。 今までにご紹介した Vierterl 「4分の1」, Achterl 「8分の1」, Mädel または Madel 「女の子」でもそうでしたが,もともとの名詞が微妙に姿を変えていますね。

この -erl,-[e]l は,縮小の後つづりですから,特に人名の後につけられると,愛称形として「可愛い」,「純真な」,「邪気のない」というニュアンスが加わります***。

ところで,まさにこの点に関する批判的なコラムをオーストリアの新聞で読んだことがあります。「たとえば男の名前 Jörg に -l をつけて Jörgl とすると,たとえその名の男性がどんなに危険な可能性を秘めた人物であっても,この後つづりによって,いわば無害化されてしまう。 縮小の後つづりは用心して使おう」という趣旨でした。コラムの筆者は,オーストリアの有名な保守派の政治家 Jörg Haider を念頭においてこの警告を発していましたが,たしかにある人間が Jörgl と呼ばれようが, Jörg と呼ばれようが,その人柄には変わりはないでしょう。 同じように ein Vierterl Wein が ein Viertel Wein よりも harmlos 「無害である」ということはなく,ウィーンの世話物に登場する süßes Mädel 「かわいい女の子」が,いつも süß であるとはかぎりません。名前に惑わされず実態をきちんと見る,これはここでもやはり大切なことなのでしょうね。

* ie というつづりは,標準ドイツ語では Liebe [リーベ]「愛」, vier [フィーア]「4」のように,[イー]という長音を表します。 しかし数字 vierzehn [フィアツェーン]「14」, vierzig [フィアツィヒ]「40」の場合はふつう[フィア…]と短くなりますし,ほかにもこの Viertel 「4分の1」,vielleicht [フィライヒト]「ひょっとすると」, Liechtenstein [リヒテンシュタイン]「(スイスとオーストリアにはさまれた公国)リヒテンシュタイン」など, ie が[イ]という短音を表す例があります。 このことは「ひょっとすると(vielleicht)」,独検受験の役に立つ…かもしれません。

** 私のケースと正反対の方向ですが,やはりこの Sackerl 「レジ袋」でまごついた話を知人から聞いたことがあります。その知人は日本の音楽家で,ウィーンで長く勉強した後,ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)の歌劇場に職を得て,北ドイツのこの町に赴きました。 ある日,町でたくさん買い物をして,レジ袋におさまらなくなり,店員に「もう一つ Sackerl をくれないか」と言ったところ,北ドイツの店員はこの南ドイツの Sackerl という語を知らず,はとが豆鉄砲を食らったようにぼんやりしていた,ということです。

*** 後つづり -erl はウィーン以外ではあまり聞きませんが,人名の後に -[e]l をつけた愛称形はドイツ語圏の広い地域に存在しています。グリム童話の『ヘンゼルとグレーテル(Hänsel und Gretel)』は Hans und Grete の愛称形です。 これと並んで Hänschen [ヘンス・ヒェン],Gretchen という形もあり,前者は『 Hänschen klein 』という子どもの歌(メロディーは日本の童謡『ちょうちょう』と同じです),後者はゲーテの『ファウスト』第1部に出てくる女性の名前として有名ですね。