コラム

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2007/01/22

Nr.13 ドイツ語圏 (7) オーストリア (5)

諏訪 功 (一橋大学名誉教授・元独検出題委員)


「オーストリアのドイツ語」のお話も,もう5回めになります。ここらでもうすこし具体的な話を始めないと,いつまでたってもきりがありません。とはいえ,あまりにも特殊な言い回しや語をご紹介してもしかたありませんから,標準ドイツ語を学んだ日本人が,オーストリアに行って,ちょっと戸惑うような表現,しかもドイツで出版されている規範的な標準ドイツ語の辞書にも(「オーストリアの言い方」などという断り書き付きではあっても)とにかくちゃんと記載されている表現を中心にお話しします。

ドイツで出版されているオーストリア旅行案内書には,よくオーストリア特有の言い回しや単語,いわゆる Austriazismen (<Austriazismus) と標準ドイツ語を対応させた一覧表がついています。その旅行案内書の1つ dtv junior Ferienbuch Österreich (Deutscher Taschenbuch Verlag 1984) では,はじめのところに Österreichisch für Anfänger 「初心者のためのオーストリア語」という1章があり,標準ドイツ語と異なる言い回しや語彙が説明されていますが,その章の冒頭には次の文が載っています。

Wenn du in Bayern lebst, darfst du dieses Kapitel überschlagen. Denn die meisten Österreicher sprechen eine Mundart, die mit dem Bayerischen nahe verwandt ist. Nur in Vorarlberg spricht man alemannisch und damit einen Dialekt, der ähnlich wie das Schweizerische oder das Südwestdeutsche klingt.
「もし,きみがバイエルンで暮らしているのなら,この章は飛ばしていいよ。というのもたいていのオーストリア人は,バイエルン方言と近い方言を話すからだ。ただフォーアアルルベルクではアレマン方言が話される。つまりスイス方言や南西ドイツの方言と似た響きの方言ということだ」

このくだりを読むと,なんだかドイツのバイエルン州の人々は,たいていのオーストリア人と同じドイツ語を話していて,コミュニケーション上,まったく問題ない,という印象を受けます。おおざっぱなところはそうかもしれませんが,実際はいろいろと違いがあり,お互いに理解不可能だったり,誤解しあったりすることがあります。そこには次のような事情があるからです。

同じ方言圏に属している人々であっても,そこに国境線が走っていると,その線を境にいわばお互い背を向け合い,それぞれ異なる中心に向かってまとまっていきます。ドイツは地方分権の伝統がある国ですが,それにもかかわらず,ドイツ領で暮らす人々は,たとえ南ドイツの人々でも,首都ベルリンにあるドイツ連邦政府によって決定される政治や経済の網に組み込まれていきます。他方,オーストリアの人々も,政治や経済の分野では,好むと好まざるとにかかわらず,ウィーンにある中央政府の決定に従わざるを得ません。つまりそれぞれ2つの異なる中心へ引き寄せられることによって,主として政治や経済の分野で細かい差異の裂け目ができ,それがどんどん広がっていき,この差異,分離が言葉にも反映されます。少なくとも書き言葉のレベルでは,ドイツもオーストリアも同じ標準ドイツ語を使っていますが,以上のような理由から,書き言葉であってもオーストリア独特の語彙,言い回し, Austriazismen が生まれ,それらは時として北ドイツのみならずバイエルンの人々にとってもわからないことがあります。ここでは最初にお断りしておいたように,Duden の辞書や日本の辞書にも記載されていて,時々書き言葉の中にも侵入する Austriazismen だけを選び,そのいくつかについて私の経験に基づいてお話ししましょう。

ウィーンの8区,Josefstadt に Theater in der Josefstadt,あるいは Josefstädter Theater という名前の,小さな,きれいな劇場があります。ウィーンの中心部を囲む環状道路 Ring から西へすこし外れたあたりです。ウィーンで暮らすようになってからまだ間もないころ,私はこの劇場へ行こうと思って市電に乗りました。リングのどこかの停留所でヨーゼフシュタットへ入る路線 J-Linie に乗り換えなければなりませんので,市電のアナウンスに耳を澄ませて緊張していましたが,なかなか J [ヨット jɔt] という音が聞こえてきません。聞こえてこなかったのも道理で,後で知ったのですが, J, j はオーストリアでは [ヨット jɔt] ではなく, [イェー jeː] と発音されます。 J-Linie は [ヨット・リーニエ] ではなく, [イェー・リーニエ] であり, Linie J というふうに言われた時は, [リーニエ・ヨット] ではなく, [リーニエ・イェー] となります。「ヨット電」というアナウンスを待っていて,「イェー電」に乗り換えるタイミングを失した後,どうしたかはもう覚えていません。見ようと思っていた芝居はちゃんと見ましたから,なんとか最後には無事にたどり着いたのでしょう。なお,ついでに言っておきますが, Q,q もオーストリア式の呼び名では [クヴェー kveː] です。 [クー kuː] ではありません。この2つの字母のオーストリア式読み方は,小学館の独和大辞典にもちゃんと載っています。

みなさんはオーストリアの新聞・雑誌で, Jänner 「1月」,Feber 「2月」という月名, heuer* 「今年」という副詞を目にしたことはありませんか?標準ドイツ語では,順に Januar,Februar,in diesem Jahr です。この3つは,オーストリアでは書き言葉にも堂々と登場する語ですが,とりわけ最後の heuer から派生した形容詞 heurig 「今年の」が有名です。 heuriger Wein というと,「今年の新酒」という意味,自家製のこのようなワインを飲ませてくれる Lokal 「酒場」が Heurigenlokal です。 heurig はさまざまな形で名詞化されますが,日本では「ホイリゲ」という形で知られていますね。 zum Heurigen gehen と言えば,こういう「(たいていはウィーン郊外にある)酒場に行く」という意味です。夏の再来を思わせるような晩秋の暖かい夕べ,戸外の広い庭におかれた木のベンチにすわり,よく冷えた grüner Veltliner (ワインの品種です)を傾けるのはなかなかオツなものです。

ちなみに,ミュンヒェンの「南ドイツ新聞」(Süddeutsche Zeitung)に執筆していた在日のドイツ人ジャーナリストに,「南ドイツ新聞では heuer という語を記事の中で使うか」と尋ねたところ,「使わない」という答えでした。 Jänner 「1月」と Feber 「2月」については,尋ねるのを忘れましたが, Jänner のほうは一度「南ドイツ新聞」でも目にしたことがあるような気がします。(この項続く)

* heuer はたいへん由緒正しい語で, Hermann Paul のドイツ語辞典には「古高ドイツ語では hiuru,中高ドイツ語では hiure。元来は hiu jâru „in diesem Jahr“ から」という記載があります。