コラム

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2006/06/15

Nr.5 ドイツ語圏 (2)

諏訪 功 (一橋大学名誉教授・元独検出題委員)


前回は,ドイツ語がべつにドイツ(ドイツ連邦共和国)だけで話されているわけではなく,オーストリアでも,そしてスイスの大部分でも話されていること,その意味でドイツ語は「国際的な」言葉であり,ドイツ語圏はいろいろな面,とりわけドイツ文学の面で,国境を越えた大きな統一体をなしていることをお話しました。

国境を越えたドイツ語圏については,たいていの独和辞典のとびらや巻末についている地図(「ドイツ語圏」,「ドイツ方言一覧」,「方言分布図」など,呼び名はいろいろです)を見るとわかります。 たとえば小学館の「独和大辞典第二版コンパクト版」(2000年)2831ページの「方言分布図」を見てみましょう。この地図では2本の太い「方言境界線」が左から右へ,つまり西から東へ引かれていて,ドイツ語圏が上から下へ,つまり北から南へ大きく三つに分けられています。 この三つの地域には,北のほうから Niederdeutsch(低地ドイツ語),続いてその下が Mitteldeutsch(中部ドイツ語),いちばん南が Oberdeutsch(上部ドイツ語)と記されています。

2本の太い「方言境界線」と比較すると細くて見えにくい国境線をなんとか探し出して,2種類の境界線をくらべてみましょう。おもしろいことがわかります。いちばん北の「低地ドイツ語」の地域の中には,オランダのほぼ全体とベルギーの北半分がすっぽり包み込まれています。オランダ語,およびそれとほとんど同じフラマン語が,ドイツ語の方言の一つと扱われ,独立した言語の扱いを受けていないわけで,オランダの人々,あるいはベルギーの人々が怒るのではないかと心配になります。

真ん中の「中部ドイツ語」の地域も,西ではルクセンブルク,フランスの国境を越えて広がっていますが,いちばん込み入っているのが南の「上部ドイツ語」の地域です。ドイツのミュンヒェンとオーストリアのウィーンは,国境を越えて Bairisch「バイエルン方言」という同じ区分に入っていますが,このバイエルン方言はインスブルックの南のほうではイタリアとの国境の向こうに広がり,そこにはボルツァーノ(Bolzano,ドイツ語名は Bozen)という町を中心とするドイツ語圏があります。さらにまた,オーストリアのいちばん西のあたりは,オーストリアの他の地域と違う記号がつけられていて,どうもスイスと同じ Alemannisch「アレマン方言」という地域に分類されているらしい。しかもこの Alemannisch はスイスのバーゼル(Basel)を越えて北へ伸び,フランスのアルザス地方にも食い込んでいる…などなどです。

国境線と言語境界線がほぼ一致しているのは,東のほう,ポーランドとチェコに接するあたりです。

国境線と言語境界線とのこの不一致は,もちろん前者,つまり国境線が時代の変遷とともに,人為的に引き直されるためです。たとえばボルツァーノを中心とする地域,南チロルは1919年,第一次世界大戦の戦後処理の一環として,イタリアに割譲されました。しかし旧オーストリア・ハンガリー帝国に属し,昔からドイツ語を母語としていた住民は当たり前の話ですが,そうあっさりと言葉を取り替えることはできませんでした。

フランスとドイツとの間で,何度も帰属が交代したアルザス地方については,フランスの作家アルフォンス・ドーデーの短編小説『最後の授業』のなかで,感動的な話が伝えられています。普仏戦争でフランスがドイツに敗れ,フランス領だったアルザス地方がドイツに割譲されたころ,つまり1871年ごろのお話です。ある朝,学校に遅れて行った「わたし」は,教室にいつもと違う何か異様なおごそかな雰囲気があるのに気づきます。フランス語の先生もいつもと違う立派なフロックコートを着ていますし,教室の奥のふだんは空いている席には,村の人たちが座っています。授業が始まります。先生は教壇にのぼり,こう言います。「みなさん,私が授業をするのはこれが最後です。アルザスとロレーヌの学校ではドイツ語しか教えてはいけないという命令が,ベルリンから来ました…新しい先生が明日見えます。今日はフランス語の最後のおけいこです。どうかよく注意してください」(ドーデー作,桜田佐訳「月曜物語」岩波文庫,1966年,第29版)。先生はフランス語についていろいろと話をし,フランス語が世界じゅうでいちばん美しい,いちばんはっきりした,いちばん力強い言葉であることや,ある民族が奴隷となっても,その国語を保っているかぎりは,その牢獄の鍵を握っているようなものだから,私たちのあいだでもフランス語をよく守って,決して忘れてはならないなどと語ります。そしてその日の授業の最後に先生は,声を詰まらせながら,黒板にできるだけ大きな字で「フランスばんざい!」と書き,「もうおしまいだ…お帰り」と言います。

たいへん感動的なお話ですね。「母国語を奪われる人々の悲しみと,なんとしてもそれを奪われまいと決意する,自分たちの言語への愛着」というような感想は,そこから生まれるものでしょう。たしかに,ぼんやり読んでいると,この地域で生活のあらゆる場面で使われていたフランス語が,一夜のうちに強制的にドイツ語に切り替えられるという印象を受けます。ところが,ところがです。同じ話の中で,同じ先生がこうも言っています。「ああ!いつも勉強を翌日に延ばすのがアルザスの大きな不幸でした。今あのドイツ人たちにこう言われても仕方がありません。どうしたんだ,君たちはフランス人だと言いはっていた。それなのに自分の言葉を話すことも書くこともできないのか!」…なんだかヘンだと思いませんか? 先生は,アルザスの人々はフランス人でありながら,「自分の言葉,つまりフランス語を話すことも書くこともできない」と嘆いています。ここでさきほどの「方言分布図」を思い出してください。アルザス地方もこの「分布図」にちゃんと載っていますね。この地方の人々の日常語は,この地域がフランス領だったときも,フランス語ではなく,方言とはいえドイツ語でした。だからフランス語の先生は,(おそらくはドイツ語で)「フランス人なのにフランス語ができない人々がいる」ことを嘆いたのです。そうすると,この先生は 「(母国語でない)フランス語が奪われることを悲しみ,なんとしてもそれを奪われまいと決意し,国家としてのフランスとの連帯を表明した」ということになりますね。「母国語を奪われる人々の悲しみと,なんとしてもそれを奪われまいとする固い決意」という素朴な解釈にくらべると,かなりねじれた解釈をしなければならないわけです。

今ではアルザスの中心都市ストラースブールには欧州議会があって,アルザスはドイツとフランスとの融和,ヨーロッパ統合のシンボルともいうべき地域になっています。しかしこの地域の言語問題は,ドイツとフランスの勢力の消長に伴う再三にわたる帰属の揺れ動きという歴史的状況のせいで,たいへん複雑な様相を呈していたのですね。

こういうことを考えながら「ドイツ語方言分布図」を見直してみますと,国境線と言語境界線がきれいに重なり合っている東のほう,ポーランドとチェコのあたりが,なんだかかえって怪しく思われてきます。たとえばポーランド南西部の都市ヴロツワフは,ドイツ名でブレスラウ(Breslau)と言われるほうがたいていの人になじみがあるくらい長い間ドイツ領で,第二次世界大戦後,ポーランドに帰属しました。この地域に1945年以前住んでいたドイツ人たちは,もちろんドイツ語を話していたはずです。しかし,今はこの辺でも国境線と言語境界線はきれいに重なり合っていて,ドイツ語圏が国境をまたいでポーランド領内に入り込んでいるなどということは,すくなくとも「方言分布図」からは見てとれません。この辺に住んでいたドイツ人たちは,自分たちの土地がドイツ領からポーランド領に移ったとき,どのような対応を迫られたのでしょうか。これらの事情を話し始めるときりがありません。今回はドイツ語圏が時には主要3カ国,つまりドイツ,オーストリア,スイスの国境を越えて広がっていることだけを,あらためて確認しておきましょう。