コラム

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2006/04/21

Nr.2 W杯を待ちながら…(1) ドイツ・サッカーの黎明

粂川 麻里生 (慶應義塾大学助教授・独検実行委員)


独検サイトの読者の皆さん,こんにちは。ついにワールドカップの試合チケットを入手した粂川麻里生(独検実行委員)です。折角の機会ですので,サッカーについてのコラムを連載で書かせていただき,ひそかに盛り上げて参りたいと思います。

19世紀半ばにイギリスで近代スポーツとしてのルールが整備されたサッカーがドイツに紹介されたのは,1872年のことでした(じつは,これは日本にサッカーが入ってきたのとほぼ同時期です)。ドイツ最大の港町であるハンブルクで「イギリスで大人気の大衆スポーツ」であるサッカーの試合が行われるようになったのです。22人の男たちがフィールド上で激しくぶつかり合う球技は,ドイツの男性たち,とりわけ都市労働者たちをたちまち虜にしました。足しか使わないので,ボールがどこに飛んでいくか分からないという「ハプニング性」も,好事家たちを面白がらせたようです。重工業勃興期のドイツで,サッカーは大都市を拠点に全国へと広がっていきました。

しかし,もちろん,ドイツの人々のすべてがサッカーに魅了されたわけではありませんでした。上流社会の人々,とりわけ女性たちの多くは,この,足だけを使ったワイルドな球技を「英国病 englische Krankheit」と呼んで毛嫌いしたのです(まあ,今でも,ヨーロッパでは「サッカー」と「女性」というのは “宿敵” ということになっていますが…)。「サッカーをやる男たちの,あの太くてごつくて毛むくじゃらの足!あれはもうすぐ20世紀を迎えようとするヨーロッパ人の姿ではない」なんていう声もけっして少数派ではありませんでした。

しかし,サッカーに「追い風」が吹きました。1872年と言えば,前年に宰相ビスマルクの指導のもとプロイセンが,それまで(1806年にドイツに侵攻したナポレオンが神聖ローマ帝国を解体して以来)小国割拠の状態だったドイツの統一を果たしたばかりの頃です。そのプロイセン文部省が,球技,とりわけサッカーを「青少年の体力向上のためによろしい」として奨励したのです。ドイツ伝統の体育であったトゥルネン(Turnen;器械体操)は,民主化運動や民族運動とあまりにも強く結びついていたため,為政者たちにとっては時に危険な意味を持つものになってしまっていました。彼らはむしろ,イギリスからやってきたこの新しい球技を青少年教育に持ち込むことで,トゥルネンの強くなりすぎた思想性を中和させようとしたようです。

政府のお墨付きをもらったこともあり,サッカーはいよいよドイツ中の流行となっていきました。1900年にはドイツサッカー連盟(DFB)が発足,3年後には第1回のサッカー・ドイツ選手権が開催されたのです。