コラム

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Nr.5 独検小史 (5)


第3回(1994年度)では,一次試験の会場数は沖縄などを加えて23個所に増え,受験者数もそれに応じて増加した。第4回(1995年度)からは3級と4級については6月と11月の年2回実施に踏み切った。これも無事に行なわれ,受験者数はさらに増加して,1万5千に近づいた。規模が広がるにつれて,独検の運営体制は着実に整備された。

1995年までに事務局の専従職員4人態勢が確立した。孤軍奮闘した鯉淵は退職したが,かつて日本独文学会の事務に携わって独文の世界をよく知る山之内,かつて花屋さんでサービス業の経験を積んだ中村,大学卒業と同時に飛び込んできたフレッシュレディ二見,それに唯一の男性職員として佐藤文彦が加わった。

佐藤は白水社の編集者として長きにわたりドイツ語関係の教科書・一般書の出版に従事して,定年退職していた。尻込みする佐藤をみんなで口説いて,やっと独検の仕事を引き受けてもらった。「私など何の役にも立ってない」というのが彼の口癖だったが,なかなかどうして,頼り甲斐のある大黒柱となって期待どおりの役割を演じてくれた。

佐藤は編集者として鍛えぬかれた目があり,また,先生たちともそれまで長いつきあいがあったから,実行委員会と事務局のパイプとして貴重な存在となった。ある年,従来の宣伝ポスターに不満の山田委員が自ら作成して採用の決まったポスターを,佐藤は見るに耐えないと批判し,委員会の席上で烈しい口論になった。70歳に近い二人の男がポスターをめぐって激論を交わす姿には,独検をなんとか育てたいというみんなの気持ちが突出した形で現れていた。

1996年には振興会の理事改選があり,早川理事長と神品・山田の独検起ち上げコンビが退任した。新理事長に就任した平尾浩三は慶應義塾大学教授でドイツ中世文学の権威だが,熱心なドイツ語教育者で,独検の看板にはふさわしい人だった。神品と山田の役割を引き継いだのは渡辺健と光野正幸だが,いずれもずっと独検に関わっていたメンバーだから,交替は円滑に行なわれた。

話はさかのぼるが,うれしかったのは,独検の成功を機会に仏検,西検,独検の三者懇談会をもち,大いに盛り上がったことだ。相互の情報交換は特に新入りの独検にとってはありがたいことだった。毎年一回,当番回り持ちでやっていきましょうということになったが,当番が一巡したところで長く立ち消えになってしまった。が,2016年4月,仏検と独検との二者間協議の場が設けられ,昨今の第二外国語を取り巻く厳しい状況や検定試験の実状について意見の交換がなされた。今後も不定期ながらこういった機会が持たれることは意義があると思われる。