コラム

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Nr.4 独検小史 (4)


配達される願書は,ダンボールに入れて午前に午後に届けられるようになり,整理の手もつかぬまま,狭い事務局はみるみる願書の海となった。最終の出願者数は,誰も予想しなかった9140通であった。「うれしい誤算」と関係者一同喜びながらも,実は真っ青になっていた。九千余の願書を処理して,定めた期日までに受験票を全受験者に送付できなければ,混乱は必至である。

急拠パソコンが追加購入され,臨時の作業要員が集められた。委員の先生たちは試験問題や会場の準備など手一杯であるため,願書の整理の責任を負ったのは,たった一人の専従職員鯉淵であった。1ヵ月のあいだ残業と休日出勤がつづき,いつも明るい鯉淵の顔から笑みが消えた。どれほどの無理をしたか,彼女は多くを語らない。

鯉淵と作業チームの奮闘のおかげで,願書の発送はぎりぎり間に合い,無事に試験日の11月23日を迎えた。そのあとの採点と判定,1級2級の二次試験の準備と実施と,いずれも前例のない仕事だけに苦労の連続だったが,大過なく終わった。こうして独検は産み落とされた。2月21日に目白のホテルで催された初の授賞式で,受賞者たちの晴れやかな顔に接していると,関係者たちはこれまでの労苦をすっかり忘れ,独検はやっぱりやるべきだったのだとの確信をもつことができた。

第1回から成功した原因としては,日本におけるドイツ語教育の長年にわたる浸透が背景となって,昔とった杵柄(キネヅカ)組,ドイツ滞在経験者組,テレビ・ラジオ学習組,先生に勧められた学生組など,さまざまの厚い層が独検に関心をもってくれた点が挙げられる。さらに,東京の2会場のほかに阪神地区に1会場を設けることができたことも大きかった。実行委員の下程息を中心として,阪神の先生たちが結束して1会場を立ち上げ,二次試験も実施して,関西の大票田を掘り起こしたのである。

さらに,ドイツ語圏の各大使館から「後援」を取りつけることができたのも有効だったし,一見ライバルのようでもあったゲーテ・インスティトゥートが,独検の存在意義を認め,協力し合う姿勢を示していただけたのもありがたかった。ルフトハンザ社からのドイツ往復航空券というご褒美の提供も,めざましい宣伝になった。ドイツ語教科書出版の老舗郁文堂は,営業・経理の面で私たちの弱いところを補助してくれた。

第1回の授賞式が終わるとほどなく,第2回(1993年度)の準備が始まったが,すでにその間に独検事務局は同じマンションに専用の一室を設け,出願者1万5千まで期間内に処理できるプログラムも整えていた。試験場も全国に広がって14個所となり,願書受付中には朝日新聞等に広告を出し,大手書店などでの願書受付けも始まった。かくして第2回の出願者数は12,591名に達した。全盲者,全聾者のための試験も実施した。第2回目にして独検は,ほとんどすべての体裁を整え,語学検定試験の一翼として定着した。