コラム

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2020/02/05

Nr.56 「彼は牽引でベルリンに行く。」?

富山 典彦(成城大学教授・独検実行委員)


ぼくが大学でドイツ語を学んでいた頃は,現在のような手軽で便利な学習辞典はありませんでした。もちろん,電子辞書などは想像もできませんでした。独和辞典というとたいていは「キムラ・サガラ」(『木村・相良独和辞典』博友社)でしたが,この独和辞典は大きさも手頃だし,何しろ伝説の独語独文学者である木村謹治先生と相良守峯先生の編纂によるもので,学習辞典とは違う奥深さがありました。ある単語の意味が,その語源に遡って書かれているのです。

ドイツ語は英語と違って,ある単語からの派生語が比較的容易にわかります。例えば,英語の king と royal の関係が,ドイツ語の König と königlich に当たります。また,王様が König ならば女王様は Königin だということは,すぐにわかりますね。

独検2013年度春期3級で,次のようなアクセントの問題が出題されました。

1 leben  2 lebendig  3 lebhaft  4 Erlebnis

この問題を見てわかるように,leben の派生語のアクセントの位置がひとつだけ違っているのです。正解は2番ですが,わかりましたか?

ドイツ語では,動詞の不定形を大文字で書くと中性名詞になりますから,leben から das Leben という名詞が派生します。また,leben の現在分詞である lebend は,「生きている」という意味の形容詞になります。leben の派生語である lebendig からは die Lebendigkeit,lebhaft からは die Lebhaftigkeit という抽象名詞が派生します。

さて,話を「キムラ・サガラ」に戻してみます。ぼくがドイツ語を学び始めた頃,例えば次のような文をどう日本語に訳していいのか,困ったことがあります。

Er fährt mit dem Zug nach Berlin.

何が困ったかというと,Zug の意味です。「キムラ・サガラ」では,その単語のルーツに遡って記述されていますから,Zug を調べるとまず,「他動詞 ziehen に応じて」とあり,訳語としては「引くこと,ひっぱること,牽引,船を引くこと」とあります。

たしかに,Zug は ziehen という他動詞から派生していることを知ることは大切なのですが,この訳語を上に挙げた例文の訳には使えません。まさか,「彼は牽引でベルリンに行く。」などと訳して平然としている人はいませんよね。

次に出てくる訳語は,「網引き」と「網の漁獲高」です。さらに,den ersten Zug haben という熟語が挙げられていますが,これはチェスや将棋などで「先手である」という意味になるそうです。こうしてみると,時間があるときに,「キムラ・サガラ」を読んでみると,いろいろ勉強になります。しかし,まだまだ mit dem Zug の意味にはたどりつくことができません。

Zug という単語に当てられた訳語を順番に拾っていくと,「呼吸(すること),飲み込むこと」「傾向,性向,本能」「(引いた)線」「目鼻だち,顔だち,容貌」「引くのに用いる器具,装置」とあります。それらの訳語には,他の類義語との関連や熟語などが書かれていて,読んでいるとドイツ語の深い世界に引き込まれる気がします。ここまでが「Ⅰ」という大きなくくりです。

次に「Ⅱ(自動詞 ziehen に応じて)」という大きなくくりになりますが,「(軍隊又は一般隊列の)行進,行軍」「(鳥などの)移動,渡り」「行進する列,隊,群れ,行列」「一連の動物,連獣」と続いたあと,ようやく「汽車(の列),列車」が出てきます。Zug について書かれていることのちょうど真ん中あたりです。ここまで読むのにどのくらいの時間がかかったかを考えると,上に挙げた例文の Zug の意味を調べるのに「キムラ・サガラ」は適していない,ということになってしまうかもしれません。

学習辞典では,Zug の訳語の最初に「列車」がありますし,Der Zug fährt um 8 Uhr ab.とか,Der Zug kommt um 8 Uhr an.という例文が,見やすい形で書かれています。まさに「学習」を意識した配列です。

しかし,「Zug = 列車」と一対一対応で単語の意味を覚えることを,ぼくとしてはあまりお勧めしたくありません。ある単語は,それぞれ独特の意味の広がりや奥行きを持っているからです。そのことに気付いて,時間のあるときに「キムラ・サガラ」のような辞典で,よく知っているつもりの単語を引いてみると,きっと新しい世界が開けてくると思います。