コラム

ここからページの本文です

2014/09/01

Nr.36 kommen と gehen

恒川 隆男 (元ドイツ語学文学振興会理事)


新学期が始まってまもなくの頃,講師控室でいつも顔を合わせるドイツ人の先生とこんな話になりました。

―― kommen と gehen の違いは日本人の学生にはわかりにくいようですね。欧米の学生だと,説明しなくてもわかるのに。

―― つまり,英語で come なら kommen,go なら gehen と教えれば,それですむ,まず kommen と gehen の使い方を取り違えることはない,ということ ?

―― そういうことですね。

―― でも,どうしてそうなんだろう。

―― ドイツ語と英語は近いから。

―― 日本語はどちらからも遠い。だとすると,ドイツ語の kommen と gehen の区別が,英語にあるだけじゃなくて日本語にもあるとすれば,偶然の一致というか,奇蹟みたいなものだね。でも,あるんですよ,<来る>は kommen,<行く>は gehen。

―― そうかなあ。

―― 「いつも水曜日には大学に来ます」なら,Ich komme mittwochs zur Uni. でしょ。

―― でも,それを Ich gehe mittwochs zur Uni. という学生がときどきいるんですよ。

―― それだと,「私はいつも水曜日には大学へ行きます」だから…

―― <来る>は kommen だとちゃんとおぼえていればこんな間違いはしない,ということですか。たしかにそうなんだけど…

―― Ich komme mittwochs zur Uni. も Ich gehe mittwochs zur Uni. も文法的には正しい。ただ,そういうことを言うシチュエーションが違う。Ich komme mittwochs zur Uni. は話者が大学にいるとき,Ich gehe mittwochs zur Uni. は…,どういうときか…

―― 話者が,例えば自宅に居て,水曜日に風呂場の掃除をしてくれと言われて,水曜日は大学に行く日だからね,駄目ですというような場合,Mittwochs gehe ich zur Uni.

―― いやに,現実感があるなあ。

―― 授業が終わって帰るときにね,Ich gehe langsam nach Hause.(そろそろ家に帰ります),これは大学で同僚の先生方に言う。家に電話して妻に言うのは Ich komme um 6 Uhr nach Hause.(6時には家に帰ります)。ドイツ語ではここでも gehen と kommen を区別して使うけれども,日本語ではどちらも「帰ります」じゃないですか。

―― われわれ日本人に言わせれば,nach Hause だけで用が足りる,そのうえ,Ich gehe … nach Hause. と Ich komme … nach Hause. を区別するなんて余分なことなんです。いや,そうはっきり考えているわけでもないけど…

―― そう考えるのは,合理的だとも思いますけどね。

―― ドイツ語だって,ときどきはそう考えているのですよ。Ich muß nach Hause. Mittwochs muß ich zur Uni. と言うじゃないですか。これだと,kommen とも gehen とも言わない,だけど支障はおこらない,あるいは,kommen の場合も gehen の場合も使える。こうなるとね,kommen と gehen を区別することは言語にとって本当に必要なのかと,疑問にさえなります。

―― でも,言語はただ必要なものだけでできているわけじゃないでしょ。無駄も余分もたくさんあるから言語なんじゃないですか。日本語だって,<来る>と<行く>を使い分けるのを,必要がないからといって止めたわけじゃない。それにしても<行く>でいつも不思議に思うんだけど,たとえば3時に会議がある。うっかり忘れていると,研究室に電話がかかってきて,「3時からカリキュラム委員会なんですが…」,返事は日本語では「すみません。すぐ行きます」ですよね,でも,ドイツ語では Entschuldigung, ich komme gleich.

―― Entschuldigung, ich gehe gleich. ではない。でも,学生からすると,だって<行きます>じゃないですか,ということになる。<行く>であっても kommen になる場合があるとなると,折角<行く>は gehen,<来る>は kommen とおぼえても意味がない。僕は学生には,kommen は<私はいずれあなたの前に姿をあらわすだろう>,gehen は<私はいずれあなたの前から姿を消すだろう>という意味だと教えているんですよ。これだと,大体間違えない。

―― Ich komme gleich. はそれでわかりますね。いや,Ich gehe langsam nach Hause. も Ich komme um 6 Uhr nach Hause. も,Ich komme mittwochs zur Uni. も Ich gehe mittwochs zur Uni. もそれでわかる。これは名案ですね。

―― いや,でもすべての場合を網羅して考えたわけじゃないからね。ただ,教室で思いつく程度のことは,これで大体片づくのだけど。

―― ここで<あなた>が出てくるのは面白いですね。文の主語は ich だけど,話者の頭のなかには文には出てこない<あなた>が想定されているわけだ。

―― でも,まさに文の主語が ich だから,<あなた>が想定されるんじゃないかな。文の主語が er なら,<私の,あるいは,私とあなたの前に姿をあらわす>,<私の,あるいは,私とあなたの前から姿を消す>ということになるんじゃない?

―― Er kommt morgen zur Uni. Er ist gleich nach dem Unterricht nach Hause gegangen. ああ,そうですね。

―― 主語が2人称だったら…

―― Kommst du morgen zur Uni? Gehst du gleich nach Hause? Ich hätte Lust, ein Glas Bier zu trinken. <私の前に姿をあらわす,私の前から姿を消す>ですね。

―― それは,例文ですか,それとも,現実の会話の一部ですか。

―― 両方ですよ。

―― そう,それじゃ,Ich gehe gerne mit.