コラム

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2010/10/15

Nr.34 「ドイツ語のセンセイ」の恥ずかしい回想記 (4)

粂川 麻里生 (慶應義塾大学教授・独検実行委員)


小学二年生の頃だったと思いますが,父が仕事から帰宅するなり,「ほい」と一冊のマンガ週刊誌を私にくれました。

「マンガだけど,これは大変ためになるから読みなさい」

そう言って,父が開いてくれたページには『巨人の星』というタイトルが立体的な文字ででっかく印刷してありました。

「このマンガのテーマは“根性”だ。根性は,何よりも大切だ。
どんな能力があったって,どんなに環境に恵まれていたって,根性がなければ何もできない。
逆に,世の中にはあらゆるハンディを根性で跳ね返している人たちがたくさんいる。
だけど,今は豊かな時代になったから,根性の大切さを学ぶことがなかなか難しい。
その点,このマンガはスポーツを通じて根性を教えているんだ。
お前も,この『巨人の星』を読んで,根性を学んでほしい」

父は,小学生のときに満州から母ひとり子ひとりで引き上げてきて(本当は,妹も一緒だったのですけれど,途中で死んでしまって,佐世保の港で火葬にしたそうです),高校生の時にはその母親も亡くしてしまい,納豆売りなどのアルバイトをしながら学校をでた苦労人です(当時としては珍しくはなかったでしょうが)。それだけに,すでに豊かになった日本社会の中で,結核を病んで体力もない息子がちゃんと「根性」を持った人間に育つかどうか,いつも心配しているようでした。

父の手配はすばやく,翌週からはわが家に『週刊少年マガジン』(以下,『少年マガジン』)が定期購読で届けられるようになりました。普通の小学生は,定期購読するなら『小学○年生』とか『○年の科学』といったいわゆる学習雑誌をとっていて,私ものちに『科学』をとってもらうようになったのですけれど,私が最初に定期購読した「学習雑誌」は『少年マガジン』でした。このことは,すぐに友だちの話題になりました。

「マリオちゃんち,『少年マガジン』がいっぱいあるんだって?」
「うん,うち,とってるから」
「いいなー。うちなんか,マンガ読んでいるだけで怒られるぜ」
「お父さんが,勉強になるから,読めって」
「マリオちゃんのお父さん,こわいだろう?」
「うん,こわい」
「なのに,『少年マガジン』はとってくれるんだ。かわってるな」
「そうだね」
「読みに行ってもいいかい?」
「うん,いいよ」

というわけで,わが家には男の子の友だちが『少年マガジン』を読みに来るようになりました。私たちが,どれくらい「根性」を身につけることができたかは,わかりませんが……。

しかし,『少年マガジン』の連載マンガの中で,私が一番興味を持ったのは,野球マンガの『巨人の星』ではなく,ボクシングマンガの『あしたのジョー』でした。まじめに努力をし続ける星飛雄馬よりも,不良上がりの矢吹丈とそのライバル力石徹のほうが,私には分かりやすく,魅力的なキャラクターに感じられたように思います。それが,前回の本欄で書いた,モハメド・アリへの強い関心につながていったのはまちがいありません。とにかく父は,病み上がりの私がそれなりに「スポーツ」に興味を持ったので,いちおう「しめしめ」と思っているようでした。

私だけの話ではなく,当時は「スポーツ根性マンガ」,いわゆる「スポ根」マンガの全盛期でした。バレーボールを描いた『サインはV』や『アタック No.1』,キックボクシングの『キックの鬼』,ちょっと後にはサッカーマンガ『赤き血のイレブン』など,花盛りでした。当時の子供たちは,『ウルトラマン』や『仮面ライダー』,『マジンガーZ』などと 一緒に,スポ根マンガを楽しんでいました。

私が「ミュンヘン」という,ちょっと変わった地名を知ったのは,小学四年生の頃でした。テレビで,実際のバレーボール全日本男子チームを描いた『ミュンヘンへの道』というアニメ番組が放映されたのです。アニメといっても,これは実在するバレーボール選手たちを描いたアニメの部分と,彼らの練習や試合風景を撮影した実写フィルムをおりまぜた,ちょっと変わったテレビ番組でした。この年の夏,西ドイツのミュンヘンでオリンピックが開催され,全日本バレーボールチームは男女ともに金メダルを目指していました。特に男子チームは,松平康隆監督の独創的なプロモート能力による演出もあって,芸能人以上の注目と人気を獲得していました。『ミュンヘンへの道』は,この全日本男子バレーチームがミュンヘン五輪での金メダルを目指す過程を,現実と同時進行で追いかける,後にも先にも見たことが ないユニークなアニメ番組だったのです。それまでの「スポ根アニメ」とは違って,何しろ実在の人物がリアルタイムの状況の中で活動するのですから,私はとてもひきつけられました。

すべてがミュンヘンへ続く道 すべてが栄光につながる道なのさ

主題歌でも歌われる,「ミュンヘン」という地名が,私にはなんとも不思議な魅力をもって響きました。ニューヨークとか,ロスアンゼルス,ロンドンといった,よく聞く地名とちがって,なんだか躍動的でしなやかな強さをもった響き。全日本男子バレーチームにとって「夢の実現の地」であったミュンヘンの地名は,私にとっても特別な言葉になっていきました。(ただ,それが「西ドイツ南部の都市」であることは,当時は知りませんでした。ミュンヘンはひたすら「ミュンヘン」なのでした。)

そして,ミュンヘン・オリンピックでは,日本中の期待通り,男子バレーボールチームは金メダルを獲得しました(といっても,私はテレビの生中継を見ていたわけではありません。時差がありテレビ放映は夜中でしたから,後からテレビの特集番組で試合経過を知ったのでした)。「期待通り」とはいえ,その道のりは苦しいものでした。とくに準決勝のブルガリア戦では相手チームのエース・ズラタノフ選手の豪打にさんざん苦しめられ,2セットを先取され,あと1セット取られたら敗退,というところまで追いつめられました。松平監督はこの土壇場で,すでに全盛期をすぎていた東京五輪でのエース南将之選手とやはりベテランの中村祐造選手(先日,惜しくも亡くなられたそうです)を投入します。チームは落ち着きを取り戻し,じりじりと挽回,フルセットの激闘の末「奇跡の逆転勝利」をおさめたのでした。

全日本チームは,決勝戦では東ドイツチームを相手に戦いました。強国ソ連が相手になるだろう,というのが大方の予想だったのですが,東ドイツがもう一方の準決勝でソ連を破る大番狂わせで,決勝に上がってきたのです。(大人になってから知ったのですが,このミュンヘン五輪と2年後にやはり西ドイツで開催されたサッカーワールドカップは,東西両ドイツにとって重要な意味を持っていました。1972年は,長らく互いの存在を認めてこなかった東西ドイツがついに相互の国交を開き,同時に国連にも加盟するという,記念すべき年なのでした。ですから,西ドイツのオリンピック選手のみならず,東ドイツの選手たちも本格国際デビューした母国をアピールすべく頑張ったのでしょう。)

決勝では,東ドイツが第1セットを取ったものの,その後日本が3セットを立て続けに取って,悲願の金メダル獲得となったのでした。 私は,大の男たちが抱き合ってわんわんなくという光景を初めて見て,ずいぶん感激しました。私にはもう半分おじいさんのように見えた坊主頭の南選手も泣いていました。「大人が感激して泣けるというのは,いいものだなあ」と思いながら,テレビを見つめていたものです。

そんな私は,中学生になると,自分でもバレーボールをすることになりました。もちろん,「ミュンヘン体験」のせいでバレーボールに興味はもっていたのですが,実はこれは大変なことでした。 私が入学した町立(当時)大平中学校の男子バレーボール部はいわば「超名門」で,この年まで栃木県大会8連覇,関東大会2連覇,前年度は全国大会3位という,大変な成績を収めていたのです。 監督の島田貞男先生の名前も,「鬼監督」の異名とともに全国に轟いていました。このバレーボール部に入部するのは,運動能力に自信のある各小学校のエリートばかりで,私のような,小学校の体育の授業にもろくろく出られなかった病弱な子供の寄り付ける場所ではないことは明らかでした。しかし,幸か不幸か,監督の島田先生と私の父は旧知の仲だったのです。中学入学を直前にしたある日,父が私に言いました。

「お前は,中学に入ったらバレーボールをやれ」
「 ? 」
「これは,非常に,非常に,大変なことだと思う。
しかし,俺としては,お前にぜひバレーボールをやってほしいと思っているんだ。
大平中のバレーボールは,言わばスポーツのエリートの集まりだ。
お前は,間違いなく,圧倒的に落ちこぼれる。
練習には,ほとんどついていけないだろう。
それでも,やってほしい。俺はお前にそこで根性を磨いてもらいたいんだ」
「……」
「お前は,長いこと病気をしていたから,遊びも室内の遊びばかりを覚えてしまって,
近所の男の子たちが原っぱで野球をしている時でも,女の子たちとあやとりをしたりしているだろう。
あやとりがいけないとは言わないが,男の子がいつもそれではいけない。
それにお前は,行動が非常にぐずだ。それは,闘病生活のせいもあるだろうが,
お母さんやおばあちゃんがお前に優しすぎたからというのもあると思う。
病気も治ったことだし,中学では体を鍛えて,びしっとした行動をできるようになってほしいんだ」
「僕はそんなにぐずかなあ」
「ぐずな奴は,自分がどれほどぐずか,分からないものだ。しかし,それは今は仕方がない。
監督の島田先生のことは,俺は昔から良く知っている。厳しい指導者だが,立派な方だ。
じつは,島田先生には,俺から『息子をお願いできますか』と頼んである」
「……」
「どうだ,やれるか」
「うん」
「うん,じゃない,はい,といえ」
「はい」

そんなわけで,私は「根性」を磨くためにバレーボールをすることになりました。幸い(?)『ミュンヘンへの道』と全日本男子バレーボール選手たちへの憧れを抱いていたので,そんなに悲壮な気持ちではありませんでした。むしろ,「僕も,嶋岡選手のようになれるかなあ」などということを考えていたのでした。その後の,タイヘンな日々を想像することもなく……。