コラム

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2010/09/09

Nr.33 ドイツ語圏 (21) ドイツのドイツ語 (2)

諏訪 功 (一橋大学名誉教授・元独検出題委員)


前回は,自分の言葉だけがまともであり,それと異なる言葉はすべてヘンであるという思い込みと,その思い込みからくる一連の奇妙な発言,たとえばあるドイツ人学生が発した「ヘェー,君たち日本人は本を裏表紙から読むんだね」という発言などについて,まったく個人的な体験に基づいてお話ししました。

白状しますが,私も長い間,これと類似した思い込み,つまり標準ドイツ語だけがまともであり,それと異なるドイツ語はすべてヘンであるという思い込みにとらわれていました。ドイツ語圏から遠くはなれた外国で暮らす人間としては,発音,語彙,語法などすべての面で,権威ある辞書,参考書を絶えず参照し,厳密な基準に従いながら標準ドイツ語を学んでいくほかありませんでしたから,この思い込みにもある程度,情状酌量の余地があったのかもしれません。とはいえ,このことの結果,私はときどき一種の教条主義,原理主義に陥り,たとえば wenig を[ヴェーニク],„Sag mal!“を[ザハ マ]と発音したり,anerkennen を非分離動詞扱いにして ich anerkenne と人称変化させたりするドイツ語話者*に出会うと,「ドイツ人のくせにドイツ語がちゃんとできない人がいるのか」などと,理解に苦しむ思いにかられたもの です。

もちろん,この硬直した考え方,標準ドイツ語に対する敬虔な態度は,ドイツへ行って,日常生活で話される自然なドイツ語に四六時中接するようになってから,だんだんとほぐれ,軟化してゆきました。「ドイツ語といってもいろいろある。今までずっと学んできた標準ドイツ語だけがドイツ語じゃないんだ」ということに遅ればせながら気がつき,「君子豹変す」というと格好いいのですが,終始一貫とか,毅然たる態度とかとはもともと縁のない人間なので,標準ドイツ語の枠外にあるドイツ語の諸相にも改めて興味を抱くようになっていった次第です。

とはいえドイツ語の先生の中にも,私と違って,標準ドイツ語を重視する毅然たる態度を守り続けた方もいました。優れた語学者だったK先生がそうで,先生は1970年代から1980年代にかけて,ほとんど毎年のようにドイツ語圏へ旅行し,ドイツ語研究の最新の動向について見聞を深められていました。しかし最後のころは,旅行から帰ってくるたびに悲憤慷慨されるようになりました。今でも覚えていますが,その言葉は「最近のドイツ語は乱れておりますなあ。とりわけ若い連中のドイツ語は,聞くに堪えません」でした。具体例として,前置詞の格支配の誤り(2格支配の前置詞を,平気で3格の名詞,代名詞とともに使う),定動詞の位置の誤り(従属の接続詞で始まる副文なのに,動詞を文末におかない)などの傾向*を挙げておられたと思います。日本にも言葉遣いに潔癖なうるさがたが大勢いて,「私って,こういうもの,食べれない人じゃないですか」等々の言い方を聞くとすぐ逆上するようです。しかし自分の母語ではないドイツ語に関し,母語話者も遠く及ばない見識と潔癖を保持し続け,場合によっては母語話者の「誤り」を指摘し,論拠を示して,相手をやりこめることだってできたであろうK先生のような硬骨ぶりは,やはり21世紀ではまれになってしまったようです。

前回,ドイツ本国のドイツ語を表すための Binnendeutsch 「内部ドイツ語」という表現と,オーストリア,スイスなどのドイツ語圏を表すための Außengebiete der deutschen Hochsprache 「標準ドイツ語の外縁地帯」という表現をご紹介し,Binnendeutsch というこの言いかたの裏には,どうも「ドイツ本国のドイツ語が標準であり,外縁地帯のドイツ語は標準からの逸脱である」という考えかたがひそんでいるようだ,と記しました。この考えかたがたとえば辞書の記述法などにどのように現れていたかをすこしお話しします。

辞書などでオーストリア特有の語彙や語法を表すとき「Austriazismus(複数形は Austriazismen)」,スイス特有の語彙や語法を表すとき「Helvetismus(複数形は Helvetismen)」という言い方をします。普通は,ドイツ語の略語を使って,たとえば Austriazismus の Jänner 「1月」の後ろには österr. (<österreichisch)「オーストリアのドイツ語で」と注記し,Helvetismus の Perron 「プラットホーム」の後ろには schw.(<schweizerisch)「スイスのドイツ語で」と注記します。日本の辞書では,「オーストリアでは」とか「スイスでは」と国名をはっきり記すのが普通ですが,時にはおおざっぱに[方言]またはその略語[方]だけを記すこともあります。いずれにせよ,オーストリアやスイス特有の語法はこのように注記され,特別に注意を喚起されますが,ドイツ本国特有の語彙や語法(これを Teutonismus と呼びます。複数形は Teutonismen です)は,オーストリアやスイスの人にはかならずしも自明ではないのにもかかわらず,何の注記も付されていないのですね。たとえば商店で商品を入れてくれるレジ袋は Tüte と言いますが,この語はドイツ特有の語であって,コラムの ドイツ語圏(8)オーストリア(6) でお話ししたように,ウィーンでは Sackerl と言います。さらに食料品の「クリーム」は,ドイツでは Sahne ですが,オーストリアでは Obers です**。ドイツの辞書では Tüte または Sahne を見出し語として詳しい説明を行い,Sackerl または Obers は副次的に,たとえば「Sackerl österr. = Tüte を見よ」,「Obers österr. = Sahne を見よ」などと,通用範囲を示し,まるでこれこそが標準であると言わんばかりにドイツ本国の語形を指示して切り抜けています。オーストリアの愛国者の立場 からは,Sackerl または Obers を見出し語として詳しい説明を行い,Tüte や Sahne などドイツ本国特有の語彙は,副次的に,たとえば「Tüte(Teutonismus)= Sackerl を見よ」,「Sahne(Teutonismus)= Obers を見よ」とやってもらいたいところです。

Teutonismus という注がかならず必要になってくるのは,同一の事物に対しドイツ語圏の主要3国でそれぞれ異なる言いかたがある場合です。交差点における自動車の「優先走行」はドイツでは Vorfahrt,オーストリアでは Vorrang,スイスでは Vortritt と,それぞれ違いますし,「高等学校〈ギムナジウム〉卒業試験」はドイツでは Abitur,オーストリアでは Matura,スイスでは Matura のほか Matur とも言います。これに伴って「高等学校<ギムナジウム>卒業試験受験者」は,ドイツでは Abiturient,オーストリアでは Maturant,スイスでは最後の t を d で記して Maturand と言います。これらの語のうち,ドイツ本国で使われるもの,たとえば Abitur,Abiturient には,使用国の注記がない,しかし Matura,Matur には使用国に関する注記があります。なんだか前者を最初から標準,基準扱いしているようではありませんか。

Teutonismus は特記しない。しかし Austriazismus と Helvetismus は特記し,印をつけて,ドイツ本国のドイツ語を参照させる……こういうやりかたの裏,あるいは Binnendeutsch 「内部ドイツ語」という言いかたの裏には,やはり「ドイツのドイツ語が本来のドイツ語であり,外縁地帯のドイツ語はそこからの逸脱である」という暗黙の了 解が潜んでいるように思われます。「ドイツ本国がドイツ語の中心である」,「ドイツ本国がドイツ語の基準を定める」という考え方は,ドイツ語に関していわばひとつの中心地だけを認める考え方で,面倒な専門用語では Monozentrizität 「単一中心地性」に基づくやりかたです。これに対し,英語がイギリス,アメリカ,オーストラリアなど,複数の中心地を持つのと同じく,ドイツ語も少なくとも3つの中心地,すなわちドイツ,オーストリア,スイスを持ち,それぞれの国が,それぞれの国内で,標準化された統一的なドイツ語を持つと考える行きかたがあります。いわばドイツ語の Plurizentrizität 「複数中心地性」を認める考え方です。ドイツ語が monozentrische Sprache 「単一中心地言語」ではなく,複数の標準変種が集合してできている plurizentrische Sprache 「複数中心地言語」であり,それぞれの標準変種は相互に対等であるという見方は,だいたい1970年代の半ばあたりからしだいに広がってきました。たとえば2004年には,複数中心地性を重視する理論の実践ともいうべき特色ある辞書 Variantenwörterbuch des Deutschen 「ドイツ語変異形辞典」が刊行されています。この辞書は,微妙な点では異なりながらも,ドイツ本国,オーストリア,スイスで標準とみなされれているドイツ語,つまりドイツ語の3つの標準変種にひとしく含まれる語彙と語法が説明されています。さきほど述べたように,それ以前の辞書では,ドイツ本国だけで使われる語法 Teutonismus は特記されていませんでしたが,この辞書は3つの標準変種を平等に扱っています。たとえば先にあげた「高等学校<ギムナジウム>卒業試験」には,Abitur D,Matura A,Matur CH のように,ドイツ本国も含めて,通用地域が記されています(D = Deutschland,A = Österreich,CH = Schweiz)。

とはいえドイツ本国のドイツ語は,その話者数の多さ,通用範囲の広さ,分化の度合いなどの理由で,オーストリアのドイツ語やスイスのドイツ語とはく らべものにならないと思われるほどの複雑な様相を呈しています。次回からはそろそろと「ドイツのドイツ語」の世界に入って行きましょう。

* 少なからぬ数のドイツ語話者は,このような発音をし,このような「文法違反」をしていますが,標準からのこれらの逸脱については,後でまとめてお話しします。

** もうひとつ Rahm という語もあって,これはドイツ本国の南の地方で使われます。